十九 遊仙窟(三)

 真備まきびがなかなか続きを話そうとしないので、張進志ちょうしんしは、

「おれはいない方がよさそうだ。帰るよ」

 真成まなりは彼を引き留めた。

「何を言うんだ。きみはいま兄さまを助けてくれたじゃないか。そのきみをけ者になんかするわけないだろ。兄さま、そうだろう? 彼に聞かせないならおれも聞かない。ああ、真海だってずっと兄さまのことを心配していたんだぞ?」

 真備はふう、とひと息ついてから、やっと口を開いた。

元淼げんびょうの店へ行くと、玄昉げんぼうの思ったとおり店主は日本人のわたしを歓迎してくれました。『大唐西域記だいとうさいいきき』は店ではなく家の方にあるというので、店の下男に連れて行ってもらいました。家で執事を押しのけてわたしを出迎えたのがあの元蘇蘇げんそそです。店主の娘だそうで、元蘇蘇はわたしを書斎に案内しました。『大唐西域記』は思ったより多くの巻がありました。取りあえず今日は持てる分だけ借りて、わたしはすぐに帰ろうとしたのですが、彼女が他にも読みたい物はないか、あれば机を使って少し読んでいってもいいと言うのでそうさせてもらいました。そしたらもう、読むのに夢中になってしまって」

「それで帰りが遅くなったのか?」

「いいえ、まだ続きがあります。読んでもいいと言ったのは元蘇蘇自身なのに、彼女はわたしが書物を読んでいるあいだじゅうずっとわたしの邪魔をしてきました。さっききみがしたように、わたしの背中に筆の柄で字を書いたり、自分の耳飾りをはずしてわたしの耳にあてようとしたり、わたしの膝に猫を乗せようとしたり」

「……もしかして、それが〝ひどい目〟?」

「はい、本当にひどいでしょう? わたしはこの世で書物を読むことが一番楽しいんです。そして書物を読むことを邪魔されるのが一番嫌なんです。わたしは彼女にやめてくださいと言いました。すると彼女は怒っていますぐ帰れとわたしに言ったので、帰ろうとしたら今度は本当に帰るのかとますます怒りました。しかも帰るなら『大唐西域記』は置いていけと。それは話が違うとわたしも反論しました。そうしたら元蘇蘇は『大唐西域記』を抱えて奥へ引っ込んでしまいました。こうなったらもうどうしようもないので、諦めて帰ることにしました。家の門に向かっていると、後ろから待ちなさい! と彼女の怒鳴り声がしました。立ち止まると駆けてきた彼女がわたしの背中にどんとぶつかりました。〝なんで急に止まるのよ、痛いじゃないの、もう出てって!〟。元蘇蘇はわたしを門の外に突き飛ばし、門番を呼んできて扉をばん、と閉めさせました」

「それは本当にひどい目にあったね……」 

 真成も張進志もしきりに顔を撫でていた。二人とも笑いをこらえるのに精一杯のようだった。

 真備ははあっと大きな溜息をついて、

「これで終わりと思うでしょう? ところがさらに続きがあるのです。帰り道を急いでいると、うしろから見知らぬ男がわたしの肩を叩いて言いました。〝学生さん、遊んでばかりいないでちゃんと学問しな〟。少し行くとまた別の男から同じようなことを言われました。これが長安の挨拶なのかと思っていたら、小さな子どもの手を引いた一人の母親が駆け寄ってきて小声でわたしに言いました。〝学生さん、あんた背中に女のべにがついてるよ〟」

「ごほっ、ごほっ」

 真成と張進志が咳こんだ。もしくは咳き込む真似をして笑うのを誤魔化した。

「真成、笑いたかったらどうぞ笑っていいですよ。さて、その母親はとても親切で、わたしを家に連れ帰って紅を濡れた布でこすって消そうとしてくれました。でもすべてを消すことはできませんでした。母親は一計を案じて、墨をつけた筆で紅の跡をなぞりました。筆を持ったまま背中を掻こうとしたら墨がついた、ということにしたのです」

 真成は震える声で、

「本当に大変だったね……」

「そんなことがあったから、わたしはもう二度と彼女には会いたくなかったんです。彼女も昨日あんな態度をとっておきながら、なぜ今日になって向こうからやって来たんでしょう? 本当にもう彼女とは関わりたくない。しかし残りの『大唐西域記』を取りに行かないといけない。真成、張進志、一緒に行ってくれませんか?」

 真成は首を横に振った。

「兄さま、おれも力になってやりたいけど、これは兄さまひとりで行かないといけないよ。しかも明日すぐ行かないと。そうでないとあの女、また気が変わってしまうぞ」

 次の日、真備はまるで防人に選ばれた男みたいな悲愴な顔をして宿舎を出て行った。

 真成も張進志もわたしも、彼が帰ってくるのを固唾かたずを飲んで待った。

 すると意外に早く真備が戻ってきた。しかも驢馬を引いた胡人の男と一緒だった。

 驢馬には残りの『大唐西域記』全巻がくくりつけられていた。

 待っていた三人は真備の無事の帰還を喜び、詳しい経緯を聞きたがったが、真備は「今度はすぐに貸してくれました」としか話さず、自分の部屋に入るなり寝台に倒れ込んで眠ってしまった。

 それから数日間、真備は『大唐西域記』の虜となり、わたしは彼の部屋をちょくちょく訪れては、用足壺があふれていないかを確認した。

 真備がすっかり読み飽きた頃、突如として玄昉が宿舎に現れた。

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