十九 遊仙窟(一)

 こんなことを話していると、まるで真成まなりたちが遊んでばかりいたように聞こえるかもしれないが、そんなことは決して無かったということは、きちんと言っておこう。

 むしろ彼らはふだんは学校と宿舎の往復だけで、出歩くことはあまり無かったんだ。

 夜明けすぐから学校で授業を受けて、ひるに帰ってきたら午後は復習、次の日の講義の予習と、ずっと机に向かっていた。

 ただ真備まきびは塾の休みの日には必ず書店巡りをして書物を買い漁っていた。

 彼の部屋はさっそく書物でいっぱいになった。

 そんな真備宛てに、玄昉げんぼうからふみが届いた。

 その文を読んで、真備はひとり西市の方へと出かけた。学生らしく青い衿の白い上衣を身につけて。

 暮鼓ぼこが鳴り始めてようやく帰ってきたとき、彼はとても不機嫌だった。

 真成は今日はもう話しかけるのは止そうと言って、次の日の午後にわたしと真備の部屋を訪れた。

 扉を開けると、真備は机に向かって書物を読んでいた。昨日着ていた白い服は床に脱ぎ捨てられていた。

 真備の細長い背中に向かって、真成はとても優しい声で、

「真備兄さま」

 反応は無かった。

 わたしたちはそうっと部屋の中に入った。

 と、わたしたちは異臭に顔をしかめた。かわやのような匂いがする。

 真成はもう一度、

「兄さま」

 こんなこと前にもあったなあ、とわたしが懐かしく思っていると、真成は寝台の上に転がっていた筆を拾って、

「おい、真備!」

と、筆ので真備の背筋を下から上になぞった。

「うん!?」

 真備はびっくりして後ろを振り返った。

「ああ、真成、きみでしたか。どうしてそんな女みたいなことするんです?」

 真成は大きな目をさらに大きくして、

「え、ちょっといたずらしてみたくなっただけだよ。でも女って? 女にされたことあるのか? 誰に?」

「きみ、何か用があってここへ来たのでは」

「別に。それより何なんだ? この匂い。遣唐使船の中みたいだ」

 真備は机の下を指差して、

「ええ、その通りです。ここでも用足し壺を使い始めたんです。この部屋は厠が遠くて、往復すると書物を読む時間が削られてしまってもったいないので」

 真成は眉をひそめ、わたしに壺の中身を捨てて来いと言った。

 わたしは大急ぎで壺を持って部屋を出た。

 厠へ向かう途中、唐人の学生から呼び止められた。

「おい倭人わじん! おまえが真備しんびか?」

 わたしはむっとしたが、早く壺の中身を捨てたかったので笑顔を作って、

「真備はわたしの主人ですが、何か?」

「真備にすぐに門のところへ来るように言え! とにかくすぐにだ!」

 唐人学生はそれだけ言うと走って行ってしまった。

 わたしはどうしようか迷った。厠まで行って戻って来るべきか、すぐに部屋に戻るべきか。

 今いる場所からどちらも同じくらいの距離だった。

 さっきの唐人学生の様子から、何かただならぬことが起きているような気がしたわたしは、結局壺を抱えて部屋に駆け戻ったのだった。

「ずいぶん早かったな」

 真成はにこにこしながら言ったが、わたしが床に下ろした壺がちゃぷちゃぷ言ったのでまた眉間に皺を寄せた。

 わたしは肩で息をしながら、

「ま、真備さま、門のところへ、来るようにと、急いで」

 真成と真備は顔を見合わせると、部屋を飛び出した。わたしも急いで追いかけた。

 真成の姿はもう見えなかったが、真備は走るのがあまり得意ではないようで、わたしはすぐに彼に追いついた。

 門の前には人だかりができていた。

 もう着いていた真成が、

真備しんびが来たぞ!」

と叫ぶと、集まっていた学生たちは潮が引くように左右に分かれた。

 潮が引いたあとにはひとりの背の高い若い女が立っていた。

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