十八 楚腰(四)


 二人が近くにいない夜は初めてだったから、わたしはなんだか不安になってなかなか眠りにつけなかった。

 翌朝、真成まなり真備まきびの二人は肩を組み、ふらふらとおぼつかない足取りで帰ってきた。二人とも酒の匂いをぷんぷんとさせていた。

 二人は真成の部屋に入るなり寝台に身を投げ出した。

「ああ! 本当によく学んだぞ! まこと長安は、新羅は、恐ろしい」

 真成が怒鳴るように言った。

 隣に寝そべった真備も珍しく声を高くして、

「ああ! まったくもってきみの言うとおりです。我々は新羅とは絶対に争うべきでない」

 わたしは二人に水を渡そうとして、ふと彼らから酒の匂いに混じって花のような香りが漂ってくることに気がついた。

 真成は水を受け取らずにわたしの顔をしげしげと見て、

真海まうみ、おまえも連れて行ってやればよかった」

「あの、昨晩は、金さまと、その……」

「そうだ、金仁範と妓楼ぎろうに上がった。だがそんじょそこらの妓楼じゃない、南曲なんきょくだ」

「な、なな、南曲!?」

 南曲というのはね、わたしたちが暮らす崇義坊すうぎぼうより北東の街、平康坊へいこうぼうの中にある高級妓館が立ち並ぶ一角のことだよ。そこの妓女たちはみな傾国傾城、ただ美しいばかりでなく舞や歌、琴などの芸を磨き、碁の相手もすれば見事な詩も作るといった賢さも兼ね備えていた。いや、いたらしい。わたしは行ったことがないからね。

 南曲の華麗さは後宮に勝るとも劣らないと言われ、要するに世の男たちの憧れの場所だった。

 だがとにかくお金がかかるところでもあって、実際にそこで遊べるのはごくわずかなお金持ちだけだった。

 ふだん餅一つ買うか買うまいか悩んでいるようなわたしたち日本人留学生組が到底行けるようなところではなかったんだよ。

 真成は急にくすっと笑って、

「なあ真海、兄さまはとうとうあの言葉を使ったんだぞ」

 眠りかけていた真備はぱっと目を開いて、

「真成、その話はしなくていいです」

「ほら、覚えているか? “春秋五覇しゅんじゅうごは宋襄公そうじょうこうを入れるべきか否か”」

しなさい」

 真備は真成の口を手で塞いだ。

 真成はその手を掴んでどけて、

「そしたらひとりの妓女がこう答えた。“宋は由緒正しい国であり、襄公が諸国に会盟かいめいをしようと呼びかけ、その呼びかけを無視できずに諸侯しょこう(他の国々の君主)が集まったのだからやはり加えるべき”と。聡明さが顔に表れた上品で美しい女だったが、なんといってもその腰の細さ! “楚腰そよう(腰の細い美女)”とはこれかと思った。その楚腰を兄さまは」

「こら!」

 真備が真成の頬をつねった。

 真成も真備の頬をつねり返した。

 二人はしばらくそんなふうにじゃれ合っていた。

 わたしは突っ立ったまま、ぽかんとそれを眺めていた。

 ふだん冷静沈着な真備までもがこんなに浮かれてしまうなんて!

「まこと長安は、新羅は恐ろしい」。

 その言葉の意味が少し分かったような気がしたよ。

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