十八 楚腰(三)

 小石?

 誰かが日本人を馬鹿にして投げつけてきたのだろうか?

 わたしはすぐに後ろを振り向いたが、店の若い女たちがこちらを向いてひそひそ話をしているだけで、他の客たちはわたしたちにまったく関心が無さそうだった。

 わたしが飛んできたものを探して拾うと、それは硬い木の実、胡桃くるみだった。

 金仁範が、

「ああ、すまん。それはおれに向かって投げられたものだ」

 真成は目を丸くして、

新羅しらぎ人も馬鹿にされることがあるのか?」

「そういうこともないわけではないが、この胡桃は違う意味だ」

「ではどういう意味だ?」

「それこそおれが結婚したくない理由だよ。毛詩もうしの“木瓜ぼくか”をそらんじてみろ」

 毛詩というのは真成たちが学んでいた儒学の経典のひとつだよ。学生はこの毛詩にある約三百篇の詩を全部完璧に覚えていて、いつでもすぐに暗誦することができたんだ。

 真成は呟きはじめた。


 投我以木瓜

 報之以瓊琚

 匪報也

 永以為好也……

(わたしに木瓜の実を投げたひとには、美しい玉飾りを贈ろう。ただお礼をするというんじゃないよ、ずっと仲良くしたいから……)(註五)


「つまり、おれと仲良くしたい女が投げてきたわけだ。なあ?」

 金仁範はひそひそ話していた女たちに向かって声をかけた。

 女たちはきゃあ! と歓声を上げると店の奥に引っ込んだ。

 金仁範は懐に手を入れると、内から梅だのすももだのたくさんの果実を取り出して卓の上に並べた。

 真成は目をぱちぱちさせて、

「これ、全部そうなのか?」

「そうだ。通りを歩いていると直接袖の中に入れてくる女もいるんだ。さっきの女も胡桃を投げてくるとはなかなかだな。痛かっただろう、ええと……?」

 金仁範の美しい瞳にわたしの顔が映った。

 わたしは頬を熱くしながら答えた。

「わわ、わたしは総真海です」

「総真海、これ、持って帰っていいぞ。おやつに食べろ」

 金仁範は卓の上の果実を手で集めてわたしの方に寄せた。

 真成は彼に小声で、

「果実をもらったお礼はしないのか?」

「したとも。さっきおれが店の奥から出て来たのを見てなかったのか? これは“またね”のご挨拶だよ。さて、おまえたちとは何の話をしていたんだっけな」

「この長安のこと、広く世の中のことをおれたちに教えるということだった」

「そうだったな。よし、今度の四門学の休みにじっくりと講義をしてやろう。長安がどういう街か、そして新羅の国力がどれほどのものか、おまえたちに教えて込んでやる。休みの前日の午後からおれの家に来い」

 金仁範に言われたとおり、次の休みの前日の午後、真成は塾の休みを取った真備も連れて金のところへ出かけて行った。

 真成はわたしに、

「もしかしたら議論が白熱して金の家に泊まることになるかもしれない。休みの前日から来いというのは、おそらくそれを考えてのことだろう。だから帰って来なくても心配するな。宿舎の管理人には届けを出しておいてくれ」

 はたして暮鼓ぼこが鳴っても二人は戻ってこなかった。

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