十一 蘇州(一)

 吐いた物の酸っぱい匂い。血の匂い。小便の匂い。糞の匂い。

 目を開けると薄暗くて狭い場所に寝っ転がっていた。

 ここはどこだ?

 ああ、上総国府かずさこくふの馬小屋か。なんだか長い夢を見ていたな。唐へ行く夢……。

 わたしは起き上がろうとした。頭が重く、からだ中が痛かった。

「おう、兄ちゃん、起きたか。着いたよ、唐に」

 足の方から声がした。

 見ると数人の男たちが床を掃除していた。

「……ここは?」

「だから唐だよ。少し前に着いたんだよ。いま蘇州そしゅうの港に向かってるよ」

 男たちは水手かこだった。そこはやっぱり遣唐使船の中だったのだ。

 水手たちは床に飛び散った吐瀉物や糞尿を片付けていた。船の中にはかわや代わりの小さな壺が物陰に置かれていて、みなそれに用を足していたのだが、その壺が嵐で割れて中身が床にぶちまけられたのだった。

 わたしは階段を這い上がり、甲板の上へ出た。

 頭上に眩しい青空が広がっていた。

 そのまま腹這いで甲板を進むと、先の尖った靴が目の前にやってきた。

 顔を上げると副使藤原宇合ふじわらのうまかいがわたしを見下ろしていた。

 宇合は口の端を少しだけ上げて笑うと、何も言わないまま颯爽と立ち去った。

 わたしは船べりまで行って手すりにしがみついた。確かに目の前に木々の茂った陸が見えた。

 これが唐?

真海まうみ、起きたのか」

 船首の方から真成まなりがやって来た。玄昉げんぼうの姿も見えた。なんと真備まきびまでいた。彼は青白い顔で船室の壁にもたれかかり、玄昉と何やら議論していた。

 真成が小首を傾げて、

「大丈夫か? 鼻血が出てるぞ」

と、指でわたしの鼻の下を拭おうとしたので、わたしは慌てて自分の手の甲で鼻血をこすりとった。

「何度呼んでも起きないから心配してたんだ。おまえの様子が変わったらすぐに知らせるよう水手かこたちには頼んでおいたんだが。船はいま蘇州の港に向かっている。この辺りだと遣唐使船を着けられるような大きな港はないそうで、現地の役人の舟が先導してくれている」

 要するにわたしは「陸だ! 陸が見えたぞ!」「やった、ついに唐へ着いた!」と船員全員で肩を抱き合い、涙を流して喜び合うという最も素晴らしい瞬間に立ち会えなかったのだ。もうみなそれぞれの持ち場で淡々と働いていた。

 たとえいまさらでも、真成とは喜びを分かち合いたい。

 そう思ってわたしは笑顔を作り、

「真成さま、ついに唐へ着いたんですね!」

「他の三船はまだのようだ。みな無事ならいいが」

「そ、そうですね……」

 蘇州の港に着いた。唐の役人が遣唐使船にやって来て副使宇合と話をした。

 初めて唐人を見たが、顔はわたしたち日本人と変わらなかった。だが唐語しかしゃべらない。ああ、やっぱりここは唐なんだ。

 入国の許可が出るまでは船を降りることはできなかった。港には警備の役人が置かれた。

 蘇州の人々は遠巻きに遣唐使船を見ていた。

 わたしたちの方もすぐそこにあるのに足をつけることができない陸を恨めしく眺めた。

 しばらくすると陸とは反対側の櫓棚ろだなにいた水手たちが騒ぎ始めた。

 何事かと行ってみると、何艘かの小舟が近づいて来ていた。舟にはたくさんの瓜や桃などが載っていた。舟主たちはわたしたちに向かってかまびすしく呼び声を上げた。

 彼らは物売りで、商売しに来たのだった。

 警備の役人たちにも物売り舟は見えていたはずだが、役人たちは談笑しているだけで別に咎めもしなかった。

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