十 怒濤(二)

 それから二日は天候は穏やかだった。

 といってもわたしたちはまだ海の上だ。絶えず波に揺られている。

 船酔いの恐ろしさはいつまで続くのか分からないところだった。寝ても覚めても吐き気がする。吐いても吐いてもまだ吐きたい。もう吐くものなんて腹の中に残ってないのに。頭も締めつけられているかのように痛い。

 酸っぱい匂いと苛立ちが船倉に満ちた。

 水手かこが怒鳴った。

「ああ、くそ! この船酔いめ、いい加減にしろ! いっそひと思いに殺してくれ!」

「馬鹿言ってんじゃねえ!」

「うるせえ!」

「ああ、ひでえ。こりゃ女の悪阻つわりみたいなもんか? ほんとにひでえ」

 荷箱に突っ伏していた真成まなりがくっ、と笑った。

「悪阻だと? 男のおれたちは、いったい何を生み出そうとしているんだ」

 四日目、朝から雨が降った。

 また嵐が来るのでは。

 皆黙り込んだ。ぎぎ、ぎぎと船がきしむ音だけが続いた。玄昉げんぼうが初めて僧らしく経を唱えた。

 夜になり船の揺れがどんどん大きくなった。ごうごうと風の音が鳴り響いた。やはり嵐になったのだ。

 入り口を締め切ったはずの船倉の中にまで雨が降った。

 いや、船べりを乗り越えた高波が甲板を滑り、船倉の入り口の扉をこじ開け下へと流れ落ち、床や壁にぶち当たってしぶきとなったのだ。

 それまでになかった大きな波が、船底をゆっくりと高く持ち上げていった。

 わたしの口から呟きが漏れた。

形埋於異土シンマイユーイートゥ魂帰於故郷ハングイユーグーシャン……」

 ?

 おれはいまなんと言った?

 こんな唐語、李先生に教わったか?

 いや、もっと前から知っていた気がする。ずっとおれのからだの中にあった言葉。

 は異国の土に埋もれたが、魂は故郷へ帰る。

 唐人自身の言葉だ!

 高々と船を掲げた大波は、今度は船を水面へと叩き落とそうとした。

 その瞬間、わたしのからだはふわっと浮き上がった。からだから魂が抜けていってしまいそうだった。

 魂! 唐人の魂!

「だめだ、唐人! おれのからだから抜けるな、おまえだけ帰るな、おれたちも連れて行け!」

 わたしは叫んでいた。

 どおん!

 船に衝撃が走った。闇の中に男たちの悲鳴が上がった。玄昉が読経を止めた。

 どすんっ、とわたしの膝の上に何かが乗っかってきた。

 わたしはそれを手で押し戻そうとした。それは潮水にぐっちょり濡れていたがほのかに温かかった。

 それはうう、と呻いた。真備の頭だった。

 いやだ!

 真備と真成まなりがここで海に沈んでしまうなんて絶対にいやだ!

 あの御蓋山みかさのやまの月に照らされて輝いていた二人が、志に燃える若者が、こんな真っ暗闇に永遠に取り残されるなんて、そんなことあってなるものか!

 わたしは真備の頭を抱きしめた。

 唐に行くのはじゃなくていい。

 なんかどうでもいい!

「唐人! こんなおれの命なんかおまえにくれてやる! だから頼む、真備と真成だけは一緒に唐へ連れて行ってくれ!」

 一瞬の静けさのあと、また巨大な波が船を持ち上げた。

 今度こそ魂が抜けてしまうかもしれない。

 わたしはそっと真備の頭を床に置いた。

 膝立ちになって玄昉のように手を合わせ、静かに目を閉じた。

 大波は船を水面に叩きつけた。

 わたしのからだは吹っ飛び、壁に全身を打ちつけた。

 形埋於異土、魂帰於故郷……。

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