九 玄昉(四)
急に
「おれか? 学問をするためだ」
「なぜ学問をする」
「知りたいからだ」
「何を知りたい」
「世の中のことをだ」
「世の中? 世の中とは?」
「この天と地、そしてそのあいだにあるものすべてのことだ」
「知ってどうする」
「どうもしない。知りたいから知ろうとするだけだ」
「おまえは日本国遣唐使節団の一員だ。国の金で唐へ行くのだ。国に貢献できるものを身につけて持ち帰るのが役目だろうが」
「その通りだ。だがおれ自身が納得しないような中途半端な学識で、国に貢献できるとは思わない。だからおれはとことん知りたいことを知ろうとするだけだ。そうすれば成果は
「たいそうな自信だな。しかし世の中のことを知るために唐へ渡る? おまえはまだ自分の国のことだって十分に知っていないだろう。まずは日本を方々歩いて回って知るのが先だろうが」
「もちろんおれだって、できることならそうしたい。たまたま先に唐へ行くだけだ。誰もが唐へ行けるわけじゃない。おれにはその機会があった。井上氏族に生まれ、大学に入れた。在学中に遣唐使派遣の話が出た。この好運を手放すことなんてできるか。二十年後唐から帰ってきたら日本国中を回るさ。富士山も見たいしな」
富士山!
わたしははっとして真成の横顔を見つめた。
真成と二人で
「さあ、玄昉。今度はおまえの番だ。おまえはなぜ遣唐使になった? いや、まずなぜ僧になったのだ」
「なぜ僧になったか、か。気づいたときには僧だったのだ。物心つく前に寺に入れられた。何の疑いもなく修行した。年頃になって僧侶以外の生き方があることを知った。女も知った。だが僧としての生活を捨てるほどの魅力は無かった。ああ、こんなものかと思っただけだ。おれは京中の寺の経典を読み尽くし、おまえたちが学ぶ儒学の書物も開き、すでに読み飽きてしまった。おれはしばらく何事にも関心が持てなかったが、そこへ遣唐使派遣の話が出た。唐へやる留学僧としておれの名が上がった。断る理由も無かった。それでここにいる」
「それじゃあ、おまえこそどうやって国に貢献するんだ」
「頼まれたことをするだけだ。高僧から教えを授かる。まだ日本に無い経典を持ち帰る」
「もったいないな。水手たちとのやり取りを見ると、おまえにはもっといろいろなことができそうな気がする」
「おい、何のつてもないおれたち日本人が、異国で簡単に欲しいものが手に入ると思うな。まず誰にも口さえきいてもらえぬかもしれんのだから。だがまあ、もったいないと言ってくれたのは嬉しい。ありがとうな、真成」
二人は笑みを交わした。
最初の睨みあいはどこへやら、すっかり打ち解けてしまった二人の様子をわたしはぼけっと眺めているだけだった。
玄昉は寝ている
「このお方の話も聞きたいのだがなあ」
「ああ、ならおれが代わりに話すよ。下道真備、二十三歳。下道氏は備中の氏族で武官を出す家柄だが、真備は生まれも育ちも藤原京、平城京に遷都したのちの大学の宿舎でおれと同じ部屋だった。おれが大学に入る前から
「なぜ彼を兄さまと?」
「真備の母親に頼まれたんだ。おれが大学に入ったばかりのとき、真備が家に連れて行ってくれた。そこで
真備がうめいた。
真成は真備の顔を覗き込んで、
「大丈夫か、兄さま。それとおれのいまの話、間違っている?」
真備はゆっくりとからだを起こすと荷箱にもたれかかり、かすれた声で、
「いいえ何も。わたしが優秀だ、というところ以外は」
玄昉がふっと笑った。
「ご謙遜を。おれもあんたの名は聞いているよ。なんでも相当難しい役人採用試験に、全問正解で合格したのはあんたが初めてなんだってな。あんた、本当に書物を読みに唐へ行くのか?」
「もちろんわたし自身がまだ知らない書物に対して大変興味を持っています。たださっきあなたが言った通り、何らかの成果を持ち帰るのが遣唐使の役目だとわたしも思います。ならば何の才も無いわたしにできることは、叡知の詰まった書物をできるだけたくさん集めて日本へ持って帰ることかと」
玄昉がははっ、と軽やかに笑い出した。
真成が眉をひそめて、
「何が可笑しい?」
「いや、おまえたちは本当に素直だなと思って。お国のため、などと面倒くさい建前をうるさく叫ばないところが気に入ったよ。仲良くやろうな」
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