九 玄昉(三)

 筑紫ちくしまでは船酔いに苦しめられる者は少なかった。真備まきびはその少ない方に入った。

 季節は夏。真備は日中、蒸し暑くて暗い船倉の中に横たわって、荷物の一部になったかのように動かなかった。

 船が備中びっちゅう国の辺りを過ぎるとき、真成まなりが、

「兄さま、兄さまの氏族の下道しもつみち氏が暮らす備中国だよ」

と声をかけると少し体を起こしたが、またすぐ伏せてしまった。

 船の中には男ばかりが百人以上、しかもみな若くて血気盛んな男たち。

 水手かこたちは口を開けばこれまでの喧嘩自慢や女の話を繰り返した。

 猥談が始まると、真成はわたしに唐語の講義をして聞かないようにした。わたしは真成と向かい合いながらも水手たちの話が気になってちっとも集中できなかった。

 留学僧たちは苦い顔をして経を唱えていた。

 玄昉げんぼうだけがにこにこして聞いていた。

 そんな玄昉に水手のひとりが話しかけた。

「お坊さま、あんたがたはふだんから男だけで暮らしなさってる。だけどあんただって若い男だ。女が欲しくなったときはどうしてるんだい?」

 玄昉はゆっくりと立ち上がると船上へと続く階段のところまで行き、その中段あたりに腰を下ろした。彼のつるつる頭に真上から日の光が当たって眩しかった。

 彼は一度留学僧仲間の方を見やってから、

「他のご立派な僧侶の方々のことは分かりませぬが、拙僧のような未熟者はまだまだ皆さんと同じ苦しみを日々味わっております。辛いときは長老がたのありがたいお話や誦経ずきょうを聞きに行くのです」

「そんなんで収まるのかい?」

「はい。長老がたの白髪髭としわしわなお顔を眺めながら、そのしゃがれた声をずっと聞き続けると……」

「続けると?」

「こうなります」

 玄昉は前屈まえかがみになって自分の脳天を指差すと、その頭をがくっと勢いよく膝まで下げた。

 水手たちがどっと笑った。薄暗い船倉が一瞬明るくなって、白い歯を見せて笑う水手たち全員の顔が見えたように思った。

 玄昉はたちまち船倉の人気者となった。

 他の留学僧たちは怒って違う船に移りたいと副使に訴えた。副使宇合うまかいは眉をひそめて首を横に振った。

 だが次の停泊地で玄昉の噂を聞いた他の船の船員から、代わって第三船に乗りたいという者がたくさん現れた。

 押使おうしも大使も何事かと首を傾げた。が、結局は乗り換えを許可したのだった。

 副使宇合は玄昉のおかげで自分の船が一番人気となったことに気を良くして、玄昉を自分の船室に招くようになった。

 お堅い留学僧がいなくなって、船倉はいよいよ下卑な話ばかりが飛び交うようになった。

 真面目な真成もいつしか諦めて、傍らの荷箱に頬杖をつき、目をつむって水手たちの話を聞き流すようになっていた。

 そんな彼のそばに玄昉が寄ってきて、

「乗船の際のご挨拶しかしていませんでしたね、井上真成いのうえのまなりさま」

 真成は片目だけ開けて、

「わたしに何かご用ですか?」

「真成さまも船を替わりたいと思っていらっしゃるのかなと」

「いいえ、そこまでは」

 玄昉はくすっと笑い、

「そこまでは、ですか。あなたさまは正直な方ですね」

 真成は両目を見開いて、

御坊ごぼうはわたしを馬鹿にしているのか?」

「いいえ、拙僧はあなたさまと仲良くなりたいと思っておりますだけ。学生と僧の違いはございますが、この玄昉も唐で二十年暮らす身です。ともに長き年月を無事過ごせるよう、あなたさまがたと力を合わせたいのです」

 玄昉は真成の横で全く動かない真備の長いからだをちらと見た。

 真成はその視線を追うとふう、とため息をついて、

「分かりました。しかし力を合わせるとはどのように?」

「まずはお互いをよく知ることから始めましょう。どうぞ拙僧のことは玄昉、と気軽にお呼びください」

「ではわたしのことも真成、ここにいる下道真備しもつみちのまきびのことも真備で構いません。なあ、兄さま?」

 真成は真備の太ももを揺すった。

 どうぞ、と微かな真備の声がした。

 玄昉は微笑んで、

「ありがとうございます。では真成、おまえはなぜ遣唐使になったのだ」

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