九 玄昉(二)

 わたしは玄昉げんぼう真成まなりのように富士山に興味があるのかと思ってついべらべらと、

「は、はい。とても大きくて美しくて、ずっとわたしを見送ってくれているようで……」

「ふむ、見送る、ですか。なるほど」

 玄昉はそっとわたしの肩に手を置いた。

 かと思うとぐっ、と肩を掴んで背後からわたしの顔を覗き込み、にやりと笑って、

「やはりな。真海まうみ、おまえは東人あずまびとだったか」

 玄昉の光る目に射られてわたしはうっ、と息を止めてしまった。

「土佐からは富士山は決してそのようには見えぬぞ? 真海、おまえの言葉にはおれがいままでに聞いたことのない訛りがある。たぶんあずま言葉なんだろうと思っていたが、当たったな。なぜ東人であることを伏せたかはまあだいたい予想はつく。おれが知りたいのはどうやって東人のおまえが宇合と知り合い、遣唐使になったかだ」

 わたしはいまさら取り繕うこともできず、観念して彼にこれまでの経緯を話したのだった。

 玄昉はわたしの頭を撫でるようにして髪を束ねながら、

「おまえの出会った旅の僧とは誰であったのだろう。平城京の寺を出奔しゅっぽんする者はちらほらいるから分からんな。おれも会ってみたかった。それにしても唐人の祟りか。おまえをわざわざ自分の船に乗せるとは、宇合はよほど恐れているようだな」

 わたしは驚いた。宇合がかつて梅の花の香る屋敷で言った言葉を思い出したから。

「で、でも、あの、宇合さまは“わたしは恐れぬ”と……」

「ならばなぜおまえを上総に帰さぬのだ。防人に戻さぬのだ。おまえを留学生の傔従けんじゅうにして唐に行かせるわけとは? 他にあるのか? 何事も複雑に考える必要はあるまい。人の心は揺れ動くものだ。恐れぬとわざわざ口にするのは恐れているからだ。祟りを恐れ、かつ敬っている。唐人の魂の力があれば船が途中で沈むことはない、無事に唐へたどり着くと信じたいのだ。だから自分の船に乗せた。留学生の傔従にしたのは連れて帰っていいか迷いがあるからだろう。答えを出すのを先延ばしにしたのだ。まあ、何かを成し遂げようとするときに、すがれるものには何でもすがっておきたいと思うことに何の不思議もない。万全を期す、というところだな」

 玄昉はわたしの両肩をぽん、と叩いた。

「終わったぞ。虱はいなかった。なあ、真海。もう一つ聞かせてくれ。おまえは防人のままだとして、もし隣国の新羅しらぎと戦うことになったら新羅兵の中に斬り込んで行けるか? おまえ自身は新羅人に何の恨みも無くとも」

 話題ががらりと変わったので、わたしは頭がついていけなかった。

「わ、分かりません……」

「ははは、そうだよな。そのときにならなければ分からんよな。人の心は揺れ動くもの、とおれ自身がさっき言ったのを忘れていた。いまの問いは少しは留学僧らしいことを考えようとして出したものだ。気にするな。さあ、皆のところへ戻ろう」

 結局虱は宇合の傔従と数人の水手たちの頭から見つかった。

 副使さまは大きなかめに熱い湯を用意させ、この者たちに頭を突っ込むよう命じた。

「うあちちちちち!」

 男たちの叫びを聞き、副使宇合さまはようやく溜飲を下げたのだった。

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