八 難波津(三)
もちろん
日が落ちる前にはどこかの港に船を停めて、遣唐使たちは船を下りて港近くの官舎や寺に宿泊する。
あるとき、寝る場所として留学生一行に一部屋が割り当てられた。つまり
仲麻呂が
真備ははいと答えたが、真成はそのようだったと曖昧な返事をした。
羽栗吉麻呂が珍しく張りのない声で、
「おれの妻も来ていた。身重だから来なくていいと言ったのに。千切れんばかりに袖を振っていた。あれを見たらもう、おれはなにがなんでも生きて帰らにゃならんと思った」
場がしんみりした。
真成が口を開いた。
「妻は自分から子がほしいと言ったんだろ。心配ない。ちゃんと覚悟を決められる、いい女だ」
うつむいていたわたしはびっくりして顔を上げた。吉麻呂も真備も仲麻呂も驚きを露わにしていた。
真成はぽつりぽつりと続けた。
「おれの母親はおれが唐に行くことが決まったのを聞くと、部屋に籠もってずっと泣いていたらしい。おれは子どものころから遣唐使になりたいと言っていたんだ。そのおれが十三で大学に入るとき、まず泣いた。休暇で大学の宿舎から井上の里に帰り、また平城京に戻るときもいつだって涙を浮かべていた。おれが唐に旅立つ前に里に挨拶へ行ったときは、母親は泣きながらおれにこう言ったよ。“母が悪かった、おまえを賢く生んだこの母が悪かった、何の才も無く生まれていれば、ずっと母のそばで暮らせたものを”と」
真備がため息をついた。
「何の才も無く……きみの母上にしか言い得ない言葉ですね。いや、仲麻呂、きみの母君もこんなふうに言ったことがあるのでは」
「いいえ、真備兄さま。わたくしの母ならばこう言いました。仲麻呂よ、あなたは母の誇りです、一族の誇りです、母はいつまでも変わらずにあなたの帰りを待っているから、何も心配せずに行きなさい、と。少し泣いていましたが、最後は笑顔で送ってくれました。真備兄さまのお母上はどのように兄さまを送り出されたのですか?」
「わたしの母ですか。母はこう言いました。もし自分が男だったら絶対に遣唐使に志願して、
仲麻呂がくすっと笑った。
「兄さまのお母上はまさに女傑ですね」
真成もふっと口の端を上げた。だが彼はすぐに暗い顔に戻り、
「そのくらいの覚悟がなければ母親になんかなるべきでないんだ。母親というのはいつか子どもを手放すものなんだ。覚悟を決める自信がないのなら、はじめから子どもなんて生むべきでない」
「おいおい、ずいぶん冷たい言い方だな。可愛がられて育ったくせに」
吉麻呂がいつもの口調で、でもどこか遠慮がちな様子で言った。
「おれが大事というのなら、おれの
真成はそう呟くと、もうこの話は終わりにしようと言い捨てて横になってしまった。
わたしは用を足しに外へ出た。月も星も無く真っ暗だった。
何年ものあいだ、わたしは暗闇の中で夜明けなど来なければいいと願っていた。もしあのときのわたしに母がひとことでも優しい言葉をかけてくれていたなら、わたしはきっと安らかに眠れて、いまでも生まれ故郷で暮らしていたことだろう。
真成や仲麻呂の志は本当に素晴らしいと思う。だが自分を可愛いがってくれる母を悲しませてまで唐へ行く必要なんてあるのだろうか。吉麻呂なんかは子を宿した妻をも残して。そうだ、真成は
もしおれに手児奈のような女がいたなら、おれは絶対に彼女のそばを離れない。想い合う女と一緒にいる以上に良い場所が、他にこの世のどこにあるというのか。
ああ、手児奈! いまからここを抜け出して、
「真海?」
「うわぁ!」
急に真成の声がして、あることをしていたわたしは飛び上がった。
「どうした?……ああ、すまない。なかなか戻ってこないから迷ってるんじゃないかと思って見にきた……が、邪魔した」
誰が冷たいって?
わたしは自分をひっぱたいてやりたくなった。
恥ずかしいやら後悔やらで、もうわけがわからなくなったわたしは叫んでしまった。
「お許しください! 真成さま」
「なぜ許しを乞う? おまえは何も悪いことはしていない。おれは先に戻る」
「わ、わたしも戻ります、一緒に!」
「そうか? じゃあ、行こう」
真成はいまおれに向かって微笑んでいる。見えなくても見える。
おれには想い合う女はいないが、いまのおれにはとても心地よい場所がある。それは彼のそばだ。
そう思って闇の中、わたしも彼に笑いかけたよ。
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