八 難波津(二)

 手児奈てこなの近くには真成の母親の姿もあったが、真成まなりの瞳は手児奈だけに向けられていた。

 真成は手を振ることもなく、ただ手児奈を見つめていた。手児奈もじっとこちらを見上げているだけだった。

 その手児奈の姿が揺れた。やっと船が動き出したのだ。少しずつ、少しずつ、手児奈の姿が小さくなっていく……彼女は両袖で顔を覆ってしゃがみこんだ。

「……児奈……」

 真成が呟いた。彼は袖をひるがえして船倉へ戻ってしまった。

 わたしは真備まきびの視線も追った。真備の母親がいた。笑顔で袖を振っていた。

 わたしのことを初々しいと言っていた母親。

 わたしはなんだか自分にも袖を振ってくれているような気になって、思わず手を振り返したくなった。でも真備が見ていやな顔をするかもしれないと、上げかけた手をすぐに引っ込めた。

 ああ、こんなにたくさんのひとがいるのに、おれを見送ってくれる者はひとりもいないなんて!

 いやいや、李先生がいるじゃないか。

 平城京での最後の晩、李先生はおれを部屋に呼んでこう言ったじゃないか。

「わしはもうこの歳だから、難波津までは見送りに行けぬ。おまえが二十年後帰ってきたときにはもう生きてはおるまい。つまりわしがおまえに話すのは、今夜が最後だ。よいか、真海しんかい

 わたしははい、先生と答えて深くうなずいた。

「よし、ではまずおまえ自身のことを話せ。わしは宇合うまかいさまからおまえが唐人の墓の土を喰った者だということは聞いているが、その他のことは知らんのだ」

 わたしは自分の生い立ちから話をした。

 わたしが元防人さきもりだったと知ると李先生は目を丸くして、

「なんと。もしおまえが防人のままだったなら、新羅しらぎの人間、いや、わしの郷里の者たちと、やいばを交えていたのかもしれぬ。だがそうはならずにおまえはここへ来てわしと出会った。きっとわしたちには何か深い縁があったのであろう」

 深い縁。その言葉にわたしは胸が熱くなった。

「真海、おまえは唐へ行きたいのか? やはり故郷の上総に帰りたいのではないか?」

 わたしは首を横に振った。上総なんて二度と帰りたくない、故郷は捨てたのだと言った。

 李先生はいつもの強い眼光でわたしを見据えていたが、ふっと視線を和らげると、

「では次はわしのことを話す。わしはな、いまでこそ新羅人と呼ばれているが、生まれたときは百済くだら人だったのだ。幼い頃に百済は新羅に滅ぼされ、わしは家族を失った。ひとり各地を転々とさまよい、唐へも行った。最後に日本に渡ってきた。そしてこの日本で人生を終えようとしている。死ぬ前に生まれ故郷である元百済の地がどうなっているか見てみたいとは思うが、ただ一目見たいだけであって、そこで死にたいとは思わない。わしが死ぬのはやはりこの平城京でだ。ここにおいてわしは多くの若者に慕われ、生きがいを得た。わしの魂が落ち着くのはこの平城京なのだ。生まれたときは、自分が日本で死ぬことなど思いもしなかったのにだ」

 李先生はわたしの両肩に手を置き、

「だからな真海、若いおまえはいまはどこへでも行きたいところへ行け。歳をとったときどこに帰ろうとするかは、将来のおまえが決めることだ。つまり故郷とは将来にあるものだ。おまえは故郷を捨てたのではない、まだ帰りたい故郷が見つかっていないだけなのだ。さあ行け、真海。行くのだ、まことに海を渡るのだ。分かったな?」

 ひとの見ていないところでもきちんと仕事をするやつだと、わたしをいつも見ていてくれた李先生。最後の最後にわたしとのあいだに深い縁があったと言ってくれた先生。

 わたしはもうぼろぼろ涙をこぼし、黙ったままうなずいてしまった。

「返事をせんか!」

 李先生は手を振り上げた。わたしはまたげんこつが飛んでくると思ってからだを強ばらせた。

 だが李先生はわたしの頭をくしゃくしゃと撫で回したのだった。

 わたしは先生にすがりつき、声を放って泣いた。

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