八 難波津(二)
真成は手を振ることもなく、ただ手児奈を見つめていた。手児奈もじっとこちらを見上げているだけだった。
その手児奈の姿が揺れた。やっと船が動き出したのだ。少しずつ、少しずつ、手児奈の姿が小さくなっていく……彼女は両袖で顔を覆ってしゃがみこんだ。
「……児奈……」
真成が呟いた。彼は袖を
わたしは
わたしのことを初々しいと言っていた母親。
わたしはなんだか自分にも袖を振ってくれているような気になって、思わず手を振り返したくなった。でも真備が見ていやな顔をするかもしれないと、上げかけた手をすぐに引っ込めた。
ああ、こんなにたくさんのひとがいるのに、おれを見送ってくれる者はひとりもいないなんて!
いやいや、李先生がいるじゃないか。
平城京での最後の晩、李先生はおれを部屋に呼んでこう言ったじゃないか。
「わしはもうこの歳だから、難波津までは見送りに行けぬ。おまえが二十年後帰ってきたときにはもう生きてはおるまい。つまりわしがおまえに話すのは、今夜が最後だ。よいか、
わたしははい、先生と答えて深くうなずいた。
「よし、ではまずおまえ自身のことを話せ。わしは
わたしは自分の生い立ちから話をした。
わたしが元
「なんと。もしおまえが防人のままだったなら、
深い縁。その言葉にわたしは胸が熱くなった。
「真海、おまえは唐へ行きたいのか? やはり故郷の上総に帰りたいのではないか?」
わたしは首を横に振った。上総なんて二度と帰りたくない、故郷は捨てたのだと言った。
李先生はいつもの強い眼光でわたしを見据えていたが、ふっと視線を和らげると、
「では次はわしのことを話す。わしはな、いまでこそ新羅人と呼ばれているが、生まれたときは
李先生はわたしの両肩に手を置き、
「だからな真海、若いおまえはいまはどこへでも行きたいところへ行け。歳をとったときどこに帰ろうとするかは、将来のおまえが決めることだ。つまり故郷とは将来にあるものだ。おまえは故郷を捨てたのではない、まだ帰りたい故郷が見つかっていないだけなのだ。さあ行け、真海。行くのだ、
ひとの見ていないところでもきちんと仕事をするやつだと、わたしをいつも見ていてくれた李先生。最後の最後にわたしとのあいだに深い縁があったと言ってくれた先生。
わたしはもうぼろぼろ涙をこぼし、黙ったままうなずいてしまった。
「返事をせんか!」
李先生は手を振り上げた。わたしはまたげんこつが飛んでくると思ってからだを強ばらせた。
だが李先生はわたしの頭をくしゃくしゃと撫で回したのだった。
わたしは先生にすがりつき、声を放って泣いた。
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