七 アヤメ(二)

 アヤメは真成まなりの衿に涙で濡れた頬をこすりつけていた。

「……ずるいわ。わたしだって兄さまと唐へ行けるのなら、唐人の墓の土なんていくらでも飲み込んでやるのに」

 真成は黙って彼女の黒髪を撫でていた。

 アヤメは顔を上げて真成の瞳を覗き込み、

「行かないでなんて言わない。だってどれだけ兄さまが唐へ行きたかったか知っているもの。ただ一緒に連れて行ってほしいだけなの。一緒に行きたいの」

「……」

「いっそこの琴になってしまいたい。琴になったわたしを唐へ持っていって。そうしたらいつだって兄さまの膝の上で、わたしは兄さまのために美しい音を響かせるから。……ああ、どうしてそれができないの!」

「……」

「兄さまが旅立ったあと、いつかわたしの両親はわたしを他の男と結婚させる。でもわたしの心はずっと兄さまだけのもの。わたしのからだに誰が触れても、心はとこしえにあなただけのもの」

 アヤメは両手で真成の顔を挟んだ。

「兄さま、わたしからの最後のお願いを聞いて」

「アヤメ、それはできない」

「どうして? やっぱり知っていたのね? わたしがずっと兄さまに名を問われる日を待っていたって……!」

 アヤメは再び真成の衿に顔を埋めた。

「なんのために生きてきたの?……なんのために生きていくの?……死んでしまいたい!」

 真成が目を閉じた。口をぎゅっと結び、苦しそうだった。

 帰らなくては。これ以上見るな。

 だがわたしのからだは動かなかった。わたしも目をつむった。

名告なのらせ、乙女おとめ

 低い男の声にわたしははっと目を開けた。

 男の問いかけに、アヤメは男の衿から顔を離し、彼の耳に口を寄せて何かを囁いた。

 男はその短い言葉を聞いて、

手児奈てこな

とアヤメを呼んだ。

 アヤメ、本当の名を手児奈という娘は男の首にしがみついた。

 本当の名というのはね、生まれたとき親がつけた名のことだよ。アヤメというのはふだんに使っていた呼び名だったんだ。

 名告らせ。真成はアヤメに本当の名を尋ねた。

 男が女に名を問うことは、求婚を意味した。アヤメはそれに答えて名を明かした。

 わたしの目の前で、二人は夫婦になった。

 男は娘の肩に流れる髪をすくい上げ、露わになった首筋に唇を這わせた。

 娘は震えたのち、一瞬笑って女の顔になった。

 女は男の口を吸い求めた。

 わたしは膝を地にこするようにして後ろに下がり、その場を離れた。門のところまで辿り着くと、飛び出すように走った。道など分からなかったが、星が輝きはじめた紺碧の空の下をとにかく走った。遠くに揺れる灯りが見えた。

 真成の母が家の門の前で、帰ってこない我が子を心配して立っていたのだ。

 わたしは母親に真成はアヤメのところだと告げた。

 母親は黙ったままうなずき、わたしを家に入れた。

 夕食をもらい、用意された寝床に入って目をつむった。まぶたにさっき見たものが浮かんできた。

 わたしはさらにぎゅっと目をつむって頭を振った。

 でもいくら固く目を閉じてもそれは消えなかった。

 いくら待っても、わたしの口を吸う女は現れなかった。

 その夜わたしとともに過ごしたのは、わたしの涙だけだった。


 


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