七 アヤメ(一)

 二月も終わり頃、真成まなりはわたしを伴って、父母が暮らす井上氏の里がある河内国かわちのくにへ向かった。それは今後二十年の別離を告げるためだった。

 真成の父親はわたしの顔を見て少し微笑んだが、母親はずっと下を向いていた。

 真成はわたしのことを藤原宇合ふじわらのうまかいからの紹介だと言って、東人であることや唐人塚のことは一切触れなかった。父親も詳細を尋ねたりはしなかった。

 父親はわたしに息子を頼むと言った。わたしはかしこまりましたとひれ伏すばかりだった。

 母親の方は結局一言も発さなかった。

 真成は他にも方々一族のところへ顔を出した。みな遣唐留学生に選ばれた彼を賢くて立派だと褒め称えた。

 最後に訪れた家の門をくぐると琴の音が聞こえてきた。わたしはタマナを思い出し胸がどきどきした。真成が来訪を告げると音は止んだ。

 若い娘が飛び出してきた。歳は十三、四くらい、まだ幼さの残る白くて柔らかそうな頬と下がり眉、小さな口、真成を見上げて輝く黒い瞳。その瞳と同じくらいにつややかな、肩に流れる豊かな髪。わたしは娘の美しさに、息を止めている自分に気がついた。

 真成は娘ににこ、と笑いかけ、

「アヤメ、久しぶりだな。琴を弾いていたのはおまえか?」

 アヤメと呼ばれた娘は恥ずかしそうに肩をすくめて、

「お帰りなさい、真成兄さま。そうよ、兄さまから琴の弾き方を教わったときのことを思い出しながら弾いていたの。兄さまはいま平城京でどうしているかしらって。そうしたら本当の兄さまが現れてびっくりだわ」

 アヤメはちらとわたしを見た。一瞬だったが、その視線の鋭さにわたしは驚いた。

「寒いから中に入って話しましょ。兄さまの琴も聞きたいわ」

 真成とわたしは家の中に入ってアヤメの両親に挨拶したあと、琴が置いてある部屋に通された。

 真成はアヤメにあらためてわたしを紹介した。彼はアヤメにはわたしが東人あずまびとであることなどすべて話した。

 唐人塚の土を喰ったことを聞くと、アヤメはまたわたしを視線の矢で射た。矢じりはわたしの心に刺さり、傷をつけた。わたしはなぜ彼女がわたしをこんなに嫌うのか分からなくて悲しくなった。

 話の最後に真成はアヤメの顔を覗き込み、

「だからアヤメ、心配するな。必ず真海がおれを無事に唐へ連れて行ってくれる」

 アヤメは琴を見つめながら、

「そうね、兄さまが唐で楽しく暮らしているって、そう思いながらわたしもこの井上の里で暮らすわ……ずっと。ねえ、兄さま。琴を弾いて」

 真成が琴に手を置くと、アヤメは初めてわたしに笑いかけて、

「真海さんは他にも挨拶に行くところがあるでしょう? どうぞ先に帰って」

 わたしは初めて来たこの井上の里に、他に行く当てなどもちろんなかったが、アヤメの目が怖くて部屋の外に出た。

 真成の両親が待つ家へ帰るべきだ。

 そう思ったが、なんだかアヤメの言う通りにするのもしゃくで、近くの壁にもたれ、そのままずるずると座り込んで膝を抱え真成が弾く琴を聞いていた。

 春の名残惜しい日が暮れて辺りが薄暗くなっても真成は出て来なかった。いつの間にか琴の音は止んでいた。

 部屋の方を見ると夕風に扉が揺れていた。中からは灯りが漏れていた。

 わたしは這うようにして近づいた。アヤメのすすり泣くのが聞こえてきた。中を覗いた。

 ぼんやりとした灯火のそばに、真成とアヤメの顔が浮かび上がっていた。

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