六 御蓋山(二)

「おまえのことを知らないと言ったが、おれには分かっていることもある。おまえはいつか、この日本を背負って立つ」

 仲麻呂なかまろの静かな表情とは対照的に、真成まなりの顔はどんどん苦痛をにじませ歪んでいった。

「おまえは阿倍氏の子だ。そしておまえ自身がすでに大学で俊英しゅんえいの呼び名高く、留学なんぞしなくても、おまえはこれからそれなりの地位についていけるはずだ。だがおまえはその安泰な道を進まず、海を渡る覚悟を決めた。おれはおまえのその覚悟が正直恐ろしい。おまえはきっと唐で、これまでの留学生の誰もがなし得なかったことをやってのけ、誰にも手が届かなかった途轍とてつもないものを手に入れるだろう。そうしておまえの得たすべてのものが、帰国したのちの我が国の行く末を変える。おまえは国の宝だ。だがおれにはそんなおまえの将来の助けとなるような力は無い。むしろおれのような何をやっても中途半端なやつはおまえの足を引っ張りかねない。だからおれはおまえに近づかない」

 真成の言葉に、わたしは胸が苦しくなって思わず目をつむってしまった。

 真成の仲麻呂に対する痛切な思いに感動したわけではない。

 わたしは嫉妬していたんだ、仲麻呂に。わたしと同い年なのに「一国を背負って立つ」「おまえは国の宝だ」と言われる彼に。そして真成からこれほどまでに気遣われ、想われている彼に。

「わたくしを買いかぶりすぎです、真成さま。それにわたくしは真成さまに何かを期待しているのではない」

 耳に仲麻呂の声が入ってきた。その落ち着き払った声色にわたしはいらいらした。奥歯を噛み締めながら目を開けた。

「じゃあ、なんだ。なんで義兄弟になりたいんだ」

「血でもなく、地でもなく、知でひとと繋がりたいからです。誰が親か、どこに生まれたかではなく、おのれと同じ志を持つひと、学に志すひとと絆を結びたい。真成さまはさきほどご自分のことを中途半端な者だとおっしゃいましたが、本当に中途半端な者は異国で二十年も学問などしない。真成さまのご覚悟は、実は同じ覚悟を決めたわたくしにも力を与えてくださっているのです。この力はきっとこれからの地で困難に出会ったとき、わたくしを助けてくれることでしょう。そのことを知っていただきたく、また感謝の心を表すために兄とお呼びしたかった。しかし真成さまが嫌とおっしゃるなら、もうこれ以上は望みますまい。わたくしはただわたくしの心のみにおいて、あなたさまを兄とお慕いすることにいたしましょう」

 わたしは彼に対して卑屈な思いを抱いていた自分を殴ってやりたくなった。

 そもそも違うのだ、仲麻呂は違うのだ、真成も、そして真備も、おれなんかとは違うのだ!

 彼らはその高い志のために、命を賭けて海を渡るのだ。おれのように何かから逃げるために船に乗るのではないのだ、おれと彼らは最初から何もかも違うのだ!

 おれはここにいるべきでない。いてはいけない。

「ふふ、二人とも熱いことで! なあ?」

 もし羽栗吉麻呂はぐりのよしまろが冗談めかして笑ってわたしに声をかけてくれていなかったら、きっとわたしはこの場から走り去っていただろう。

 真成が一歩仲麻呂に近づいた。

「分かった。おれはおまえの兄になる。でも誓うのは山にじゃない、この月にだ」

 彼は高く上った月を指差した。

「この御蓋山にある月も、唐の長安で見る月も、どちらも同じ月だ。どこにいたって月を見るたびにこの誓いを思い出して忘れるなよ。おれたちはいまこのときから兄弟だ。二十年後、再び三人一緒にここで月を見るまでは、絶対にこの絆をほどかない」

 仲麻呂が月を見上げた。彼は目を閉じ、そしてゆっくりとまぶたを開け真成の方を見ると、

「誓います」

 真備も月を見てから真成と仲麻呂二人に向きなおり、

「誓います」

 二人の様子を見守っていた真成は最後に顔を上げて月を仰いだ。

「誓います」

 静かな時が流れた。

 真成がふっと笑った。彼はそのまま微笑みながら仲麻呂に、

「早く唐へ旅立ちたいものだな、弟よ」

 その瞬間、仲麻呂の瞳が頭上にある明月よりも輝いたのをわたしは見た。

「ええ、真成兄さま」

 三人はもう一度月を見上げていた。

 ああ、月明かりに照らし出された三人の横顔。志に満ちた若者たちの。

 この世にこれほど美しい男の横顔があるだろうか。

 わたしは未だに他を知らない。

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