六 御蓋山(一)

 霊亀三年(七一七年)二月一日夕方、遣唐使に選ばれた者たちが集まって列を作り、平城京の東へと向かった。

 御蓋山みかさのやまという山のふもとで、唐への航海の安全祈願をするためだ。

 わたしはこのとき初めて吉麻呂よしまろの主人である留学生阿倍仲麻呂あべのなかまろの姿を見た。男らしい太い眉に、高い鼻、力のこもった光を放つ瞳。

 彼はわたしと同い年の十七歳のはずだった。背丈もわたしとあまり変わらなかった。

 だが、並み居る大人たちに混じって堂々と儀式に参加する姿は、わたしよりずっと年上に見えた。

 これが天才か。

 わたしはなんだか自分がみじめになって、彼のことを目に入れないようにしていた。

 祈祷が終わると、みなほっとして月明かりの下をのそのそと帰ったのだが、真成まなり真備まきび羽栗吉麻呂はぐりのよしまろに呼び止められた。

「うちのご主人さまが、おまえらに話があるってさ」

 吉麻呂は目で阿倍仲麻呂に合図した。

 仲麻呂はうなずき、笑みを浮かべると、

下道真備しもつみちのまきびさま、井上真成いのうえのまなりさま。この阿倍仲麻呂めはお二人と同じ留学生に選ばれました。わたくしたちはともに唐で二十年過ごすのです。これまで平城京の大学では親しくお話しすることもございませんでしたが、唐ではぜひお二人と力を合わせ、学問を極め、故国に成果を持ち帰りたいと思っております。もしできることならお二人と義兄弟の契りを交わしたい。いかがでしょうか」

 真成と真備は黙って顔を見合わせた。

 吉麻呂が、

「いい話じゃねえか。おまえらの仲良し兄弟ごっこに仲間が増えるんだぜ? ほら、せっかく御蓋山まで来たんだ。ここの神さまに兄弟仁義を誓えよ」

 真成は無言のまま吉麻呂を睨みつけた。

 仲麻呂は微笑みながら返事を待っている。

 真備が背筋を伸ばして両袖の端を胸の前で合わせて、

「阿倍仲麻呂さまのお言葉、大変嬉しく思います。わたしのような者でよろしければ、ぜひ仲麻呂さまを兄と慕いたく存じます」

 真成が目を見開いて真備を見上げた。

 仲麻呂は手を叩いて笑い、

「わたくしが兄? はは、真備さまがそのような冗談をおっしゃる方だとは存じませんでした。真備さま、わたくしの父は真備さまのお父上より上位にありますが、子のわたくしはまだ無位の一学生、真備さまはすでに皇国の臣としてくらいをお持ちでいらっしゃいます。それにわたくしはあなたさまよりずっと年下です。真備さまを長兄、真成さまを次兄とお呼びしたく。わたくしはもちろん末弟です」

「おれはまだ返事をしていない」

 真成が言った。

 仲麻呂はまだ笑みは浮かべたまま、目の中の光だけを少し鋭くして、

「真成さまはわたくしがお嫌いですか?」

「嫌いじゃない。といって好きでもない。おまえのことはよく知らない」

「ならばこれから知ってくださればよいのです。なにせ二十年もあるのですから。わたくしたちは嫌でも知り合わなくてはならないでしょう」

 真備がそっと真成の肩に手を置いて、

「仲麻呂さまのおっしゃるとおりだとわたしも思います。真成、唐には父も氏一族もいない。我らが日本国は唐に公使公館も置いてはいない。わたしたち留学生が頼れるものはお互いだけです」

 吉麻呂まで真成の肩を掴んで、

「そうそう、おれだっておまえの力になってやるよ? まあ、反対におれがおまえに頼ることはないと思うけど」

 真成は吉麻呂の手だけ払いのけて、

「阿倍仲麻呂、真備兄さまはともかく、おれなんかにおまえが頼ることがあるのか? おまえはすべてにおいておれより優っている。生まれも学識も人としての度量も。そのおまえがおれにいったい何を期待するというんだ?」

 仲麻呂の顔から笑みが消えていった。

 だが彼の眼差しは少しも揺らぐことなく真っ直ぐに真成に注がれたままだった。


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