五 真備(五)

 真備まきびが箸を止めた。吉麻呂よしまろは続けて、

「あれはそこそこ教養のある唐の女をどう口説くかっていう指南書だよな? あんたの苦手なしゃれた詩のやり取りがいっぱい載ってて、そのまま女に使える。実をいうとあれをあんたの前に借りたのは阿倍仲麻呂あべのなかまろだ。おれは仲麻呂が写したのを読ませてもらった。でもまあ、仲麻呂は詩人だから、純粋に詩の作風に興味があっただけみたいだが」

 真備は吉麻呂を見ていた切れ長の目をやや細くして、

「あれは山上やまのうえさまの方から持ってきてくださったのです。わたしが貸してくれとお願いしたわけではない」

「なるほど、山上さまはあんたに絶対読ませたかったんだな。なんとなく理由は分かるよ。おれもさ、あんたは唐の女に好かれるような気がするんだよな、背高いし、頭いいし。平城京の女たちには“備中びっちゅうの田舎者”とか“書物にしか興味の無い変わり者”とか言われてちっとも人気無かったが」

 真成まなりがわざとらしく大きな咳払いをした。

 吉麻呂は頭の後ろで腕を組み、

「で? 真海まうみは何者なの?」


 いつの間にか李先生の家には真成、真備、吉麻呂の三人しか来なくなっていた。真成と吉麻呂が鉢合わせした日は、先生の部屋の窓から二人が唐語で言い争う声が聞こえた。

 吉麻呂はこの家で中食を取るときは必ずわたしを同席させた。真備ほどではなかったが背の高い彼はわたしのことを「小東人こあずまびと」とか「元防人野郎もとさきもりやろう」などと呼んだ。口は悪かったが、食事の取り方だけでなく、傔従として必要な言葉使いやお辞儀の仕方など礼儀作法をひととおり教えてくれた。

 あるとき、初めて吉麻呂、真備、わたしの三人で中食を取ることになった。

 吉麻呂が真備に、

「そういや、あんたの傔従は決まったの?」

「まだです。わたしは従者など必要ない、従者を付けるくらいならその分わたしに支給するあしぎぬでも増やして、向こうで書物を買う金に充てさせてくれと願い出ているのですが、いまだに通らないでいます」

「ふーん、なんか面倒くさい決まりがあんのかな。おれさ、思ったんだけど、あんたもこいつを傔従にしたら?」

 吉麻呂は箸でわたしを指した。

 あしぎぬというのはね、きれいな絹の織物のことだよ。遣唐使となった者には朝廷からその役職に応じた分のあしぎぬを支給された。わたしたちはこの絁を唐に持って行って、唐の銭と換え、生活費に充てたんだ。

「あんた、いまからよく知らないやつを傔従に付けられたって気詰まりなだけだろ。ただでさえ勝手の分からない異国生活が始まるんだ、余計な気は使いたくないよな。こいつならもうだいたいどんなやつか分かってるし、おれが傔従としての在り方は教えたし、いいんじゃないか? たぶんあんたと真成は同じ宿舎に入るんだろうから、兼任はできると思う」

「それこそ前例がない、とねつけられるのでは?」

 わたしは目の前の小さな焼き魚を箸でほぐしながら話を聞いていたのだが、真備の強い視線をひたいに感じた。

 そのときふと思った。おれはまだ真備から話しかけられたことがない、彼はおれの名を口にしたことすらない。

 恐る恐る顔を上げると真備と目が合った。彼がそのままじっとわたしを見つめ続けたので、なんだか急に恥ずかしくなって、また視線を魚に戻した。

「そこで宇合うまかいの名を出すんだよ。宇合さまが選んだという井上真成の傔従に会ってみたら、この傔従以上の傔従なんて見つからないと思いました、さすが宇合さまご慧眼けいがん、宇合さまは本当に素晴らしいお方、宇合さまにあやかりたい、とかなんとか褒めちぎってさ。運良く宇合の耳に入って“じゃあ兼任いいよ”となれば最良、そうでなくてももう時間が無くなって結局お偉方は“可”を出す、そのどちらかだと思う。真海があんたと真成の傔従二人分の絁をもらったら、それを書物を買う金に充てろよ」

 いくらなんでも無茶じゃないか、そんなふうに思いつつも、わたしは真備がなんて返すのかどきどきしながら耳をそばだてた。

 真備はふう、と鼻から息を出すと、

「まあ、やってみましょう」

 さあ、どうなったと思う?

 平城京に雪が降り、年があらたまって霊亀れいき三年。わたしは真成と真備、二人の傔従分の絁を受け取ることとなった。

 わたしは自分のもう一人の主人となった真備に改めて挨拶した。

 真備はうむ、と頷き、挨拶に返す形でわたしに向かって初めて言葉を発した。とても短い言葉だった。

「真成を頼む」

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