五 真備(一)

 真成は李先生の家に頻繁に来るようになった。彼が現れるのはいつも午後だった。というのも午前中は大学の授業があったからだ。

 真成が来た日はわたしも一緒に李先生の部屋で唐語を教わった。李先生の唐語授業が終わると、真成とわたしは復習がてら唐語でお互いのことを話し合った。といってもわたしはほとんど聞き役だったが。

 どんなことを聞いたか。

 真成が十八歳でわたしより二つ年上であること。真成の氏族、井上氏は河内国の豪族であること。真成が幼いころから海の向こうの大国唐に憧れていて、遣唐留学生になるために河内国から出てきて平城京の大学に入り、宿舎生活をしながら学問に励んだこと。

 今回遣唐留学生に選ばれたのは真成のほかにも二人いること。一人は下道真備しもつみちのまきび、二十二歳。下道氏は備中びっちゅう国の豪族だが、真備自身は生まれも育ちも藤原京といって平城京の前の京らしかった。大学の宿舎では真成と同じ部屋だったそうで、すでに大学を優秀な成績で卒業して役人となっていたが、本人たっての希望で留学生になったという人物だった。

 もう一人は阿倍仲麻呂あべのなかまろ、真成と同じく大学の学生で、歳はわたしと同じ十六歳。平城京にほど近いところに里がある阿倍氏の出身。阿倍氏は井上氏や下道氏よりもずっと良い家柄だそうで、真成は大学では仲麻呂と話もしたことがないらしく、その人物評は、真成の言葉をそのまま借りれば、「彼は大学に入ってまだ三年だが、大学の教授たちがもう彼には教えるものが無いと言ったくらいの天才」だった。

 ある日のこと、いつもは午後現れる真成が朝早くやって来て、

「下道真備は来たか? 今日一緒に李先生から唐語を学ぶことになっているんだが」

「いいえ、今日はまだ誰もないです」

「きない? それあずまことばか? 面白いな。どれ、どうせ真備のことだから、また書物に夢中になって約束を忘れているんだろう。迎えに行ってみるか。真海、おまえも一緒に行こう」

 真成のあとについて下道真備の家に行くと、真備の母親というひとが出てきて迎えてくれた。

 女にしては背が高くて意思の強そうなまっすぐとした眉の真備の母は、わたしを見るなりはっとして、

「真成さん、藤原宇合さまから使わされたあなたの傔従って、この方?」

「はい、そうです。真海といいます」

 急に紹介されたので、わたしは慌てて頭を下げた。

「あなたより年下とは聞いていたけれど、まあ、なんて言ったらいいのかしら、とっても感じの方ね。でも宇合さまのお目にとまるくらいですもの、さぞかし優秀でいらっしゃるんでしょうね。真備の傔従も早く決まればよいのですが、なりたいというひとがたくさんいて困っているのです。おまけに真備自身が従者など必要ないと言ってちっとも選ぼうとしないのです。うちもいっそ宇合さまのような偉い方に決めていただきたいものだわ」

 案内されて真備の部屋に行くと、はたして下道真備という人物は正面の窓の下の机に向かって書物を読んでいた。

 息子の細長い背中に母親が声をかけた。

「真備、真成さんがお見えですよ」

 息子は返事もしなければ振り向きもしなかった。

 真成がくすっと笑って真備の母親にささやいた。

「いいですよ。少し待ちます」

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