四 真成(三)
「挨拶せんか!」
「は、はい……」
わたしは井真成の顔をちらと見た。
目が合うと井真成はにこっと笑って、
「わたしが井真成だ」
と唐語で言った。わたしはなんと返したらいいか分からなくて口ごもってしまった。
「なぜ黙っておる! 口がきけなくなったのか!」
李先生が怒鳴ったのでわたしは慌てて、
「わ、わたしは
と、いつもよりたどたどしい唐語で挨拶した。
李先生は井真成に、
「真海はこのとおり人と話すことはまずいが、よく働き、誰も見ていないところでも自分の仕事に手を抜くことがない。主人に口ごたえすることもない。仕事は何でも言いつけなさい」
生まれて初めて自分の人物評価を聞いた。
井真成はにこにこしたまま「はい、分かりました」と答えてわたしの方に向き直り、
「真海、唐で二十年間暮らすには、おまえの力が必要だ。頼むぞ」
と言って、ぱっと大輪の笑顔の花を咲かせた。
わたしはなぜか恥ずかしくなって、また返事をせずに頭だけを下げた。
その頭に李先生からげんこつが飛んできた。
井真成とわたしは庭に出た。彼の後ろに立つとわたしの方が少しだけ彼より背が高かった。
井真成は黒い瞳をきらきらさせながら、今度は日本語で、
「
わたしはどきどきしながら、
「あの、ま、まうみです」
「そうか、
わたしはその問いに答えられなかった。なぜなら、
「あの……」
「なんだ?」
「遣唐使とは、何でございますか?」
真成は大きな目をさらに大きくして、
「遣唐使は日本国天皇より唐国皇帝へと出される国の使いだ。どんな使いかというと、ここだけの話だが、要するに大国唐の皇帝に対するご機嫌伺いだよ。遣唐使はおよそ二十年に一度派遣される。今回選ばれたおれたちは前回より数えて十五年ぶりの遣唐使ということになる。おれは唐に行ったら唐の
唐!
そうか、すべてはおれが唐人塚の土を喰らったせいだ! 唐人の魂を宿したおれを唐に送りつけるため、宇合はわたしに唐語を覚えさせ、今回の遣唐使に潜り込ませたのだ……!
待て待て。唐へ行くだと? このおれが? 本当に? これは夢か?
混乱しているわたしを真成は心配そうに見つめて答えを待っている。
“素性を聞かれたら土佐生まれだと言え”。
わたしが口を開こうとしたとき、真成はわたしの顔から視線を外して、
「おれたちはこれから異国でともに二十年暮らすんだ。おれはおまえにおれのことをちゃんと知っておいてほしいし、おまえのことも知りたい。だが無理ならいい」
わたしはまた口を閉じてしまった。
土佐……どこにあるかも知らない。唐……二十年……。
わたしは両の拳を握りしめ、大きく息を吸ってから口を開いた。
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