四 真成(二)

 ぽかんとしているわたしを、老主人は早口で怒鳴った。言葉は分からなくても怒られていることは分かる。どうやらわたしがうんともすんとも返事をしないことに腹を立てているようだった。

 わたしはこの家で下男として働かされた。

 主な仕事は家の裏にある畑を耕すことだった。他にも下男下女はいたが、彼らに対しては老主人は京の言葉を話した。わたしにだけ唐語だった。

 下男頭げなんがしらの男からは平城京のことを教えられた。この平城京にはどんな人々が暮らしているか。天皇、皇族、貴族、役人、僧侶、渡来人、そして庶民。

 この家の主は海の向こうの新羅しらぎからやってきた渡来人だということだった。

 この京ではとにかく身分や家柄が大事だということは何度も言われた。一番偉いのが天皇で、いまの天皇は女だと。そしていまこの京で一番権勢を振るっているのが、天皇の外戚となっていた右大臣藤原不比等ふじわらのふひとであるということもようやく分かった。

 さらにいまが「霊亀れいき二年(七一六年)春三月」であることを知った。わたしはこの世に暦というものがあることを初めて知ったんだ。東国の農民の暮らしには春夏秋冬しかなかった。

 老主人はときおりわたしに字を教えた。なぜ字を覚えなくてはならないのか理由は全く知らされていなかった。

 きっと京では下男でもみな覚えるものなのだろう、たとえ使うところがなくても。と、わたしは自分なりに解釈していた。

 とにかくわたしは再び字を目にしたことに感激した。自分の名を久しぶりに書いたときは手が震えたよ。“真海”!

 わたしは暇さえあれば教わった字を庭の砂に書いて覚え込んだ。この京のどこかにあの旅の僧がいて、いつか会えるかもしれないと思ったが、わたしが家の外に出ることはまずなかった。

 この渡来人の家にはときどき役人の息子たちがやって来た。彼らは大学の学生だった。

 大学というのは京にあった学校で、現代とちがって大学は一つしかなかったんだよ。入学できるのは十三歳から十六歳の貴族や役人の息子だけだった。建前たてまえ上は庶民の子どもも入れることにはなっていたらしいのだが、そんな学生はまず聞いたことがない。

 学生たちは老主人に唐語を教えてもらいに来ていたのだった。彼らは老主人を「先生」と呼んだ。

 開け放った窓から下手くそな唐語が聞こえてくると、わたしはなぜか競争心にかられた。おれの方がこいつらより上手く唐語を話せる、話してやる。

 学生たちは見たところわたしより二、三歳年上なだけに見えた。

 門のところで談笑している学生たちを見かけると、わたしは下を向いて大急ぎで横を通り過ぎた。もっとも彼らにはわたしのことなど目に映ってないかのようで、途切れることなく続くおしゃべりと、ときどき沸く笑い声がわたしの耳に刺さった。

 その声から逃げるように裏の畑に走っていくと、わたしは黙々と硬い土にくわを振り下ろし続けたものだった。


 霊亀二年秋九月のこと、わたしは李先生に呼ばれて先生の部屋に入った。

 李先生の隣には学生が一人座っていた。細身で色白、顔は小さいが目は大きくてまだ髭も無く、一見いっけん女かと思うような優しい顔立ちだった。彼のことはこれまでにもこの家で何度か見たことがあった。

 李先生はいつものように唐語でわたしに、

「おまえは、このたび遣唐留学生に選ばれたこの井真成せいしんせい傔従けんじゅうに決まった。おまえの新しい主人に挨拶しなさい」

 わたしは李先生が何を言っているのかさっぱり分からなかった。

  

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