四 真成(二)
ぽかんとしているわたしを、老主人は早口で怒鳴った。言葉は分からなくても怒られていることは分かる。どうやらわたしがうんともすんとも返事をしないことに腹を立てているようだった。
わたしはこの家で下男として働かされた。
主な仕事は家の裏にある畑を耕すことだった。他にも下男下女はいたが、彼らに対しては老主人は京の言葉を話した。わたしにだけ唐語だった。
この家の主は海の向こうの
この京ではとにかく身分や家柄が大事だということは何度も言われた。一番偉いのが天皇で、いまの天皇は女だと。そしていまこの京で一番権勢を振るっているのが、天皇の外戚となっていた右大臣
さらにいまが「
老主人はときおりわたしに字を教えた。なぜ字を覚えなくてはならないのか理由は全く知らされていなかった。
きっと京では下男でもみな覚えるものなのだろう、たとえ使うところがなくても。と、わたしは自分なりに解釈していた。
とにかくわたしは再び字を目にしたことに感激した。自分の名を久しぶりに書いたときは手が震えたよ。“真海”!
わたしは暇さえあれば教わった字を庭の砂に書いて覚え込んだ。この京のどこかにあの旅の僧がいて、いつか会えるかもしれないと思ったが、わたしが家の外に出ることはまずなかった。
この渡来人の家にはときどき役人の息子たちがやって来た。彼らは大学の学生だった。
大学というのは京にあった学校で、現代とちがって大学は一つしかなかったんだよ。入学できるのは十三歳から十六歳の貴族や役人の息子だけだった。
学生たちは老主人に唐語を教えてもらいに来ていたのだった。彼らは老主人を「
開け放った窓から下手くそな唐語が聞こえてくると、わたしはなぜか競争心にかられた。おれの方がこいつらより上手く唐語を話せる、話してやる。
学生たちは見たところわたしより二、三歳年上なだけに見えた。
門のところで談笑している学生たちを見かけると、わたしは下を向いて大急ぎで横を通り過ぎた。もっとも彼らにはわたしのことなど目に映ってないかのようで、途切れることなく続くおしゃべりと、ときどき沸く笑い声がわたしの耳に刺さった。
その声から逃げるように裏の畑に走っていくと、わたしは黙々と硬い土に
霊亀二年秋九月のこと、わたしは李先生に呼ばれて先生の部屋に入った。
李先生の隣には学生が一人座っていた。細身で色白、顔は小さいが目は大きくてまだ髭も無く、
李先生はいつものように唐語でわたしに、
「おまえは、このたび遣唐留学生に選ばれたこの
わたしは李先生が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
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