三 上総国府(五)
「タマナさま、
白髪女が慌てた様子で言った。
「あら、そう。ふん!」
女は急に不機嫌になってわたしを突飛ばすと、そばにあった細長い木の箱の前に座った。箱の上には何本か糸が張ってあって、女が指で弾くとびいん、びいんと音が鳴った。さっき聞いた変な音の正体はこれだったんだとわたしは理解した。
白髪女がわたしを部屋の隅に押しやって、床の上に膝立ちにさせた。
部屋に国守と痩せた役人が一人入ってきた。
国守はわたしを見つけてぎょっとして、
「なぜこの者が中に?」
琴の前の女はまた指に息を吹きかけて、
「国守さま、あたくしが中に入れたのですわ。だってこの子、がたがた震えていたんですもの。あんまり可哀想で。あたくしの指もほら、こんなに冷たくなってしまいましたわ。どうか国守さま、温めてくださいませ」
国守は女の手を握り目を細めて、
「なんと心の優しい女じゃ。よしよし、タマナ、あとでゆっくり温めてやるからな」
「あとって、どのくらい待てばいいんですの? 国守さまはいつもそうやってあたくしをほったらかしだわ。あたくしが平城京からこんな上総くんだりまで来たのは、ただただ国守さまを慕ってのことですのに! そんなあたくしがどれだけ淋しい思いをしているか、ちっともご存じないのね」
「まあまあ、そう怒るな。わしはおまえを心から大事に思っておるよ」
二人はしばらくそんなふうにやりあっていた。わたしといえばさっきの体の熱はどこへやら、またすっかり冷えてしまった。
「そういえば国守さま、あの者は何ですの?」
ようやくタマナがわたしがいることを思い出してくれた。
「ああ、あの者はな、ふふ、ああ見えて世にも恐ろしい者なのだぞ。おまえが退屈していると思ってな、連れてきたのだ」
「いったい何なんですの?」
「あの者はな……おい、おまえ、説明しろ」
国守はわたしと同じように部屋の中で所在なく立っていた役人に向かって言った。
役人は咳払いをすると、
「タマナさまに申し上げます。この者は防人として徴集された農民です。しかしながら防人の任は解かれました。なぜならこの者は唐人の墓の土を喰らい、その魂を体に宿してしまっているからです。この者はもし自分を防人として死なせたら、祟りがあるだろうと申しました」
タマナがひっ! と悲鳴を上げて目をひんむいた。
国守はそれが可笑しかったらしく、ニヤニヤして、
「まことに恐ろしいであろう? この者をどうすべきかわしは悩んでおるのだ。京へ送り、朝廷のお偉方に判断を任せようと思うが、タマナ、おまえはどう思う?」
「そんなこと知りませんわ! おお、嫌、祟りだなんて。……そうだわ、どうせなら右大臣のところにでも送りつけてやればいいんですわ。やがてこの世はみな右大臣さまのものになるのでしょうから。ならばこの者だって右大臣さまのものですわ」
はっはっは、と国守は大笑いし、
「これは面白いことを言う。おまえは本当に賢い女じゃ。はるばる上総まで連れてきてよかった。これからもわしのそばでわしを助けておくれ」
わたしは膝が痛くなってきた。痩せた役人がまた咳払いをした。
国守は役人に、
「聞いたであろう? この者を右大臣
役人は一礼し、目でわたしについて来るよう合図した。わたしはよろよろと立ち上がった。
部屋を出るときタマナの方を見たが、タマナはわたしと目が合うとぷいと顔をそむけた。
次の日、わたしは役人に連れられて上総国府を発った。その日も曇り空で時折冷たい雨が降り、わたしの心はちっとも浮かなかった。
平城京へ向かっている? 本当だろうか。
何の実感も無かった。やがて海が見えた。
夜が明けると快晴で、その日朝一番にわたしの目に飛び込んできたものは……翼くん、翔くん。きみたち、何だと思う?
富士という高い山があることは知っていた。だが初めて見る富士はわたしの想像していたよりもはるかに大きく、山裾をなだらかに広げたその姿は本当に美しかった。
舟に揺られて相模国へ渡るあいだも、
やがて富士が見えなくなった。つまらない道のりが続いた。大きな門が見えた。
平城京の羅生門だった。
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