三 上総国府(三)

 気がつくと、わたしは馬小屋の隅に寝かされていた。

 馬を見るのは初めてだった。馬は想像していたよりずっと大きかった。

 起き上がろうとすると吐き気がした。わたしは寝っ転がったまま馬を見続けた。馬の方はわたしに無関心で、糞をした。わたしは思わず笑ってしまった。まだこの世に笑えることがあるのに驚いた。

 どたどたと足音が聞こえてきた。途端にわたしは笑いを失った。

 小屋の中にぞろぞろと役人が入ってきてわたしを見下ろした。その中で一番歳をとっていそうな白髪まじりで皺だらけの役人が言った。

「この者か」

「はい、国守くにのかみさま」

 わたしを蹴った役人が小声で答えた。

 国守、つまり上総国で一番偉い役人である男は、わたしを睨みつけながらうなった。

「唐人の墓の土を……おお、口にするのも恐ろしい。本当なのか?」

「はい、この者と同じ里から来た防人たちに話を聞いたところ、確かにその里には唐人塚と呼ばれる唐人の墓があるそうで、ふだん里の者はみな祟りを恐れて近づかないが、この者だけは何度かそこに行っていたらしいのです。そしてこの者はさきほど唐語のようなものを喋ったのです」

「むむ、そうか。いったいこの者を如何いかにすべきであろう。唐人の魂……ここで死なせれば災いが……唐に帰すべきではないか……」

 国守はぶつぶつと呟いた。周りの役人たちは微動だにせずそれを聞いていた。わたしは仰向けのまま彼らを眺めていた。

 やがて国守はひとつ大きく息を吐いてから言った。

「わしには決められぬ。みやこの方々の判断を仰ごう」

 国守たちが帰ったあとしばらくして一人の下働きの男がやって来た。男はわたしの目の前に水の入った大きな桶を置き、手に持った布を示しながら、

「体を洗いな。髪もだ。服もこれを着ろとよ。そういや、外にあるのはあんたの荷物かい?」

 わたしは飛び起きた。蹴られた腹はまだ痛くて足ももつれたが、どうにか外へ出た。

 小屋の壁ぎわにわたしの武器と荷物があった。中身を見ると魚の干物が食いちぎられて半分になっていたが、ほかはすべて無事だった。

 荷物を盗んだやつが、唐人の祟りのことを聞いて恐ろしくなって返しに来たに違いない。そいつはきっと防人で、あの列の中にいた。そしてわたしが蹴られているあいだも黙ってそれを見ていたのだ。

 そう考えた途端、わたしはこらえきれずに吐いてしまった。

 体を洗い、用意された服に着替えると、下男はわたしについて来いと言った。わたしの頭はまだ蹴られた痛みと盗人に対する怒りでくらくらしていた。歩いているうちにいつの間にか大きな建物の前にいた。中からは変な音が聞こえてきていた。びいん、びいん、ぽろぽろん。

「連れて来ました」

 下男が声を上げた。変な音が止んだ。

 扉が開き、中から白髪混じりの女が出てきた。

「誰を連れて来たって?」

「誰かは知りません。こちらへ連れて行くよう言われただけでして」

 下男はわたしを指差して言った。

 そのとき白髪女の後ろにもう一人、真っ白な顔をした女が現れた。

 わたしはこのとき化粧をした女の顔というものを初めて見たんだよ。白粉おしろいを塗った女の顔は白すぎてわたしには怖かった。

 女はわたしを見ると微笑んで、

「新しい(男の奴隷)かしら? こっちへおいで」

とわたしを手招きし、下男にはしっしと追い払う仕草をした。下男はわたしの背中を押すと帰って行った。

 わたしはおずおずと女の方へ歩いて行った。

 


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