二 防人(一)

 僧との出会いからひと月も経たないうちに、大事な板きれは伯母夫婦の娘に見つかってしまった。

 わたしより二歳年下のこの従姉妹は、いつもどこかわたしを馬鹿にしているようなところがあった。

 娘は板に何が描いてあるのか尋ねてきたが、わたしは教えなかった。すると娘はわたしが板きれで娘を叩いたのだと伯母に泣きついた。伯母はわたしから板を取り上げ、わたしの母を呼びつけた。

 母はわたしの頬を打って謝れと言った。

 いつものことだった。

 わたしが三歳のときに父が死んで、母とわたしは伯母夫婦の家に身を寄せた。海のそばに住んでいたが、わたしたちは漁民ではなく田畑を耕す農民だった。男にも女にも税を納めるための田が割り当てられていて、子どものわたしにも耕さなくてはならない広い田があった。家族で力を合わせなければ、それらの田すべてを世話することなど到底できない。母は追い出されないよう伯母たちに気を使っていた。そのために息子のわたしが姪や姉に意地悪されていても見て見ぬふりをした。

 いつだったか、わたしは一度だけ母に訴えたことがある。

「あの子嫌い! 伯母さんも意地悪、大嫌い!」

 すると母はわたしの頬を思いっきり打った。

「二度とわたしの姉の悪口を言うな! 世話してもらってるくせに!」

 わたしは胸が潰れそうだった。母は我が子より姉の方が大事なんだと思った。

 それからはもう母に心の内を明かすことは無かったよ。従姉妹に意地悪されてもひたすら我慢したんだ。

 だから今回も、わたしはやってもないことについて謝った。それにどうしても板を返してほしかった。

 ところが伯母は板をぽいとかまどに放り込んだのだ!

 その瞬間、これまでわたしが胸に溜め込んできた憎悪が一気に吹き上がり、それは涙となって目から暴れ出た。

 わたしが黙ったまま泣いているのを見て、従姉妹は男のくせにとわたしを指差して笑った。母はわたしに泣き止むまで外にいろと言った。

 砂浜へ行き、ひと月前のように膝を抱えて海を眺めた。僧とのやりとりが蘇ってきた。

「ほら、これがおまえさんの名だ」

 わたしは指で砂に名を書いた。だが……。

 おかしい。何かが違う。

 何度も字を書き直したが、書けば書くほどどこかが間違っているような気がした。あんなに毎日見つめて、指でなぞった字なのに、どうしても正確に思い出すことができなかった。

 ああ!

 わたしは砂浜に突っ伏して声を上げて泣いた。涙が涸れるまで。

 日が傾いた。母が呼びに来た。母はわたしの腕を掴んで起こし、家へ連れ帰った。家では伯母と従姉妹が竈で貝を煮ていた。伯父も畑から帰って来ていた。わたしは夕飯を食べようとしなかった。伯母はせっかく用意したのにと言い、母は食べろと叱った。伯父はちらとわたしを見たが、いつものように何も言わなかった。従姉妹が言った。

「食べるものが無くて飢え死にするひとだっているのに」

「死んだってかまわない」

 自分の口から出た言葉に驚いた。女たちの顔がこわばった。それを見て、わたしの中の憎悪がまた煮えたぎった。

「おれが死んだらあんたたちの食べる分が増えるよ。その方がいいだろ?」

「馬鹿なこと言うんじゃない!」

 母が叫んだ。

「おまえはなんだって、いつもそうおかしなことばかり言うんだ!」

「もう止めろ。みんな食べろ」

 珍しく伯父が口を挟んだ。

 わたしは女たちの方を見向きもせずに器を手に取って貝の汁を啜った。

 視界の端で、伯母と従姉妹が不機嫌そうに顔を見合わせていた。

 その後伯母と従姉妹はわたしに意地悪しなくなった。といっても優しくなったわけではない、わたしを無視するようになっただけなんだけどね。しかも里中のひとびとにわたしのことを頭のおかしな子どもだ、かかわらない方がいいと言って回った。母はわたしの顔を見るたびにため息をついた。

 わたしは一緒に遊ぶ友も無く、いつもひとりぼっちだった。気が楽だと思うときもあれば、淋しくてたまらないときもあった。よく唐人塚に行っては再びあの僧が現れないかと待った。今度会ったら絶対に平城京へ連れて行ってくださいとお願いするつもりだった。

 でも結局あの僧が来ることは二度と無かったよ。そして毎晩寝床に横になるたびに板のことを思い出した。心の中に怒りと悔しさと情けなさが入り交じり、なかなか眠りにつけなかった。明日も同じことを繰り返すだけなら、もうこのままずっと夜が明けなくていいとさえ思った。

 だが夜は明けた。また一日が始まった。この単調な繰り返しは五年以上も続いた。

 変わったのはわたしの背丈だけだった。




 

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