一 唐人塚(二)

 僧をちらと見ると目が合った。僧は優しく微笑んで、

「なんだい?」

「あ、あの、ニッポンって」

 僧は笑みを浮かべたままわたしを手招きした。

 わたしたちは唐人塚のそばに腰を下ろした。

「ニッポンというのはなあ、わしたちの国の名だ。まあ、最近できた名だがな。おまえさんのいるここ上総国かずさのくにというのは、ニッポンという国の中にあるたくさんの国々のうちのひとつなんだよ。上総も安房も伊豆も、みんなニッポン国だ」

 僧は草を引っこ抜いて足で土をならし、そこに木の枝で何かを描いた。

「これがニッポンという字だ」

 わたしは描かれたものをじっと見た。“日本”。

「字を見るのは初めてかい?」

「はい」

「おまえさん、名は?」

「マウミです」

「マウミか、マウミ……」

 僧は別のかたちを描いた。

「ほら、これがおまえさんの名だ。おまえさんの名の字だ」

「!」

 わたしは“日本”のとなりに描かれたそれを、もうまばたきも忘れるくらいに見つめたよ。息をするのだって忘れていたかもしれない。だってわたしの名に字があるなんて!

 この世に字と呼ばれるかたちがあることは知っていた。でもそれは役人だけが使うものであり、だから役人の名だけに字がある、そんなふうに思っていたんだよ。ああ、このときの衝撃は、いまでもうまく言葉に表せない!

「書いてみるかい?」

 僧はわたしに枝を握らせて、一緒にわたしの名の字をなぞった。

「これがマで、」

「これがウミだ」

「真海、どうだい。自分の名の字が気に入ったかい?」

 わたしはうなずくのが精一杯だった。まだ衝撃から抜け出せずにいた。

「そうかい、それは良かった。おまえさん、字をもっと知りたいかい?」

「は、はい」

「ふむ。ならばわしと一緒に来るかい?」

「えっ?」

「わしはこれから富津ふっつまで行き、そこから相模国さがみのくにに渡り、遠く平城京ならのみやこへと行く。できたばかりの新しい京だよ。おまえさんが字を覚えたいなら、平城京のどこかの寺に連れて行って預けてやろう。そこで字を教わり経を覚え、わしのように僧になってもよし、途中でやめるもよし。先のことは分からんさ。どうだい、一緒に来るかい?」

 突然の誘いに、わたしは混乱した。

「あの、あの、母がいるので、母が……」

「ふ、冗談だよ。母親を大事にな。さて、」

 僧は両手を胸の前で合わせ、目をつむり一礼した。そして唐人塚の土を一掴みすると、口の中に突っ込んでもぐもぐと喰い、ごくんと大きく喉を動かして飲み込んだ。

「!?」

「驚いたかい? でもこうするのが一番いい方法なんだよ。大事なものを持って歩くと、無くしたり盗られたりするのでな。この唐人と呼ばれる者が本当はどこの誰かなど分からんが、まさか自分のがこんなところに埋められるとは思いもしなかったであろう。もし本当に唐人ならば、わしが平城京へ、西へ行くことで、この者の形を知る土がいくらか故郷唐へと近づく。つまりこの者の魂を少しは慰められるかもしれないと思ってな」

 僧は立ち上がり、腹をぽんと叩いた。

「さあ、唐人よ、わしをおまえの故郷の方へと導け。さらばだ、真海」

 僧は行ってしまった。

 わたしはしばらく呆然と足元の字を見ていた。“日本”、“真海”。

 雨が強くなってきた。

 わたしははっとして急いで砂浜へと戻り、波打ちぎわに打ち上げられていた小さな板きれと白い貝殻を拾ってまた唐人塚へと走った。そして地面に書かれた“日本”と“真海”の字を貝殻で板に写しとった。

 わたしは板をぎゅっと胸に抱きしめて家に帰った。家といってもそこは母の姉である伯母の家で、わたしは母、伯母、伯母の夫、伯母夫婦の娘と一緒に暮らしていた。

 わたしは板を四人に見つからないように自分の寝床のむしろの下に隠した。

 その夜はなかなか眠れなかったよ。

 暗闇の中、何度も板を取り出しては、目を凝らしてどうにか字を見ようとした。でも昔の夜は墨に頭を突っ込んだかのように本当に真っ黒なんだ。何も見えるはずがない。

 なんとも長い夜だった。



 

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