第30話 ざらめのように苦い
昼休み、英語教師が教室を出るなり俺は手早く詰めてきた昼食を食べていた。視界の端でスマホ片手に弁当箱を持って教室を出て行く桐ヶ谷の姿が映る。いくら高嶺の花と言ったって、去年作った友人もいるか。
飯は誰かと一緒の方が美味しいという事実を一人暮らしのお陰でよく知っているだけに、桐ヶ谷が一人にならなくて良かったなんて安堵する俺がいる。
「あれ、今日はそこで食べるんだ」
白米を口に運んだ箸が止まった。横を見やるとくるくるにウェーブのかかった明るい茶髪と、弁当の匂いを上書きする女物の匂い。隣の席の高坂がこっちを観察していた。
「……別にどこで食べたっていいだろ」
「ふーん」
正直なんなんだ、という思いだ。俺が続くかもしれない会話に身構えていると高坂は財布を持って教室を出て行ってしまう。楽しそうな話し声がするから、多分友人たちと食堂にでも行くんだろう。
高坂は不可解すぎる。俺はそれに不穏めいたものを感じながらさっさと昼食を腹に収めた。美味くもなく不味くもない、食べ慣れた味付け。もし家庭の味、というものがあるとしたら、俺の家庭の味は冬木の味付けだった。
「まあ、そんなことよりだ」
弁当箱をしまい、代わりに預かったスケッチブックを取り出す。林は図書委員の仕事か、あるいは桐ヶ谷と同じように友人とどこかで昼食を共にしているのか、教室内にはおらず絶好のチャンスだった。
俺はくたびれて少し柔らかくなっている厚紙の表紙をめくって、一枚ずつゆっくりと林の描いた絵を鑑賞する。
「きれいだな……」
喫茶店で渡された時はじっくりと見ることができなかった分、俺は独特な雰囲気を放つひとつひとつを時間をかけて味わう。鉛筆のみで粗くデッサンされたものもあれば、ペンや色鉛筆などを用いて鮮やかに縁取られたものも。完成品を詰め込んだ作品集というよりは、言い換えれば、林の試行錯誤を重ねた自由帳みたいな感じ。
ぺらりと紙をめくる度に次々と絵が移り変わる。隅の方に日付が書かれているのを見て俺は純粋に驚いた。この四十枚綴りのスケッチブックを描き始めたのが二月頃。三ヶ月くらいでこんなに描いたのかと感心する。
専門的なことは俺には分からないが、林のような絵は専用ソフトなどを使うデジタル画に対比されてアナログ画を呼ばれるらしい。素人目に見てどちらが優れるというものはない。デジタル画にはデジタル画なりの、アナログ画にはアナログ画なりの良さがある。
林はデジタルの方でも、と思考が及んでかぶりを振った。この間の電話で林はネットが苦手だと言っていたはずだ。とすればデジタル系の機材は持っていないかもしれない。スケッチブックの感触からして、アナログ画の方が林らしいとも思う。
しかしアカウント作ったとして、絵をアップするのもどうしたらいいのか悩みどころだ。単純にスマホで撮って上げるのは悪手だというのは分かる。とすればこの間遭遇したカップルの彼氏が持っていたようなゴツいカメラを手に入れるか、それか高性能なスキャナーを買う必要がある。上げる前にいくらかサイズ変更なんかの加工ができるソフトも必要だし、それを無理なくこなせるスペックのPCも場合によっては必要か……
思考に耽っていた俺はそこで急に現実に引き戻される。
今日に限って教室に残っているべきじゃなかった。俺は今朝送られてきた優馬のラインのことをすっかり失念していた。
「田崎って何度呼んだら分かるの!!」
ばっと奪われるスケッチブック。
一瞬何が起きたのか見当もつかず周囲を見回すと、教室は静まり返っていた。そして肝心のスケッチブックは机越しに正対した女子、否、紺野が振り上げた手に握られている。振った過去と、奪われた現在が重なり、ムカムカとした不快感が胸のあたりにこみ上げた。
「返せよ、それ」
少なくともそんな乱暴に扱っていい物じゃない。そういう意思を込めて睨むと紺野はスケッチブックをめくり、吐き捨てるように息を吐いた。
「なに、あんた地味になったと思ったらオタク趣味に目覚めたの? きっも」
「……お前には関係ないだろ。返せ」
噴火しそうになった感情はなんとか収める。幸い、バカにされたのが林じゃなくて俺だったからだ。林が教室にいないのも良かった。
紺野は俺とスケッチブックを見比べ、面白そうに口の端を歪める。
「ふーん? 私の言うことを聞いてくれるんなら返してあげてもいいけど?」
聞くことが前提のその言葉は、この教室の空気とスクールカーストそのものを体現していた。学校内の弱肉強食は時として残酷に牙を剥く。自分が上だという体で、条件を呑むという確証を以って、その言葉は放たれていた。
「田崎、バスケ部に入りなさい」
しんと静まり返っていただけに、その命令口調はより一層際立って俺の鼓膜を揺らす。
「断る」
即答。ざわ、とにわかに傍観していたクラスメイトたちが声を漏らす。俺が元バスケ部という事も、それもかなりの熟練者だという事も広まっている。それに相手はスクールカーストのトップだ。俺の拒絶にクラスメイトたちは驚いていた。
断られた当の本人は肩を震わせて収まりきらない怒りを滲ませる。
「なっ、なによ……田崎のくせに!」
付き合っていた時は、そんな直情的な感情の発露も可愛いと思っていた。マウントを取られても向けられる好意が嬉しかったし、自分を貫いてカーストのトップに君臨する様に憧れに近い感情を抱いていたんだ。
「全国大会に出場したことあるんでしょ!?」
「だからなんだよ」
フラれて。
「あんたがいれば全国に行けるかもしれないじゃない!」
「だからなんだよ」
グループから抜けて。
「大輔くんは今年で最後なのよ!?」
「だからなんだよ」
無関係になったら。
「少しくらい私たちのこと応援してくれたっていいでしょ!?」
「他を当たれ」
どうしてこんなにも曇って見えるんだろうか。
俺は苛立ちを露わにして髪を乱す紺野を、冷めた目で見ていた。
「ならこれ返さなくてもいいの!?」
「それは困る。返せ」
「〜〜っ!!」
紺野が地団駄を踏む。俺が従わないことがよほど不満らしい。
けどな、それだけは了承できないんだ。
俺の意思がてこでも動かないことを感じてか、紺野はスケッチブックを机に叩きつける。
「これ返すから今度の県大会に来なさい! いいわね!!」
「痛ぅ」
すんでのところで机とスケッチブックの間に手を差し込むことができた。痛みが引くのを待って顔を上げるともうそこに紺野の姿はない。紺野が掴んでいた場所がよれてしまったけど、中身は無事でホッとする。
「良かった……」
「なんだ、カッコいいとこあんじゃん」
いつの間に戻ってきたのか、隣の席で頬杖をついていた高坂がざっくばらんな笑みを浮かべていた。それは紺野によって引っ掻きかき回されてしまった教室の空気をも無視して、俺に直接向けられている。
「別に、普通だよ」
悪いやつじゃないのかもな、と思った。
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