第29話 猫じゃらしと魔法の書
「遅いじゃない」
入り口からすぐのカウンター席の一つに腰掛けていた桐ヶ谷は、ドアベルの鳴る音に振り向いてにべもなく言った。
「あのなぁ……」
「冬木さん、コーヒーご馳走様でした。お代は」
「いいよいいよ。俺が飲むついでだからね」
「ありがとうございます。美味しかったです」
「可愛いお嬢さんに言われると嬉しいね」
桐ヶ谷は冬木とそんなやり取りをすると、ハイチェアからすたっと降りる。その背後でカップを片付けながら冬木が親指を立てていた。
違うぞ。
「行くわよ」
「おう、ってどういうことだよ」
からんからんと響くベルを追って、アパートから出ながら問いかける。桐ヶ谷の長い髪は心なしか猫の尻尾のように上機嫌に揺れていた。
「どういうことって、こういうことよ」
まさに現状がそうよ、と言わんばかりに横に並んだ俺に肩を寄せる。俺は反射的にずれて間を取った。
「なんでまた急に」
「別に同級生が連れ立って登校するのって、変ではないわよね」
「それはまあそうだが」
細い道を抜けて、学校と駅直通の大通りに出る。俺が良く登校する時間帯よりも早く、歩道には生徒たちによるまばらな列ができていた。そのうち同級生と思しき者から少なくない視線を向けられる。
忘れがちだが、桐ヶ谷はあまり人を寄せ付けない『高嶺の花』というのが多くの生徒の共通認識のようなものだ。美人で勉強も運動もできて、時期生徒会候補ともなれば、そこらの人とは隔絶したステータスになることは火を見るより明らか。俺も去年までは関わり合いになるとは思いもしなかった。
「ならいいじゃない」
「良くはないぞ」
それが突如として男と一緒に登校しているとしたら、奇異の視線を集めても仕方がない。桐ヶ谷はそんな周囲のことすら楽しんでいるかのように上機嫌だった。
「嫌なの?」
全くもって答えにくい質問をする。ただでさえ優馬のせいで悪目立ちしていたところに、この桐ヶ谷の追い討ちは勘弁して欲しかったが、もうどうしようもないのも確か。
もうちょい地味な学校生活はないものか。
俺は嘆息した。
「嫌じゃない」
「ならいいわよね、春人」
「その呼び方はあの時だけだって言ってなかったか」
しかも「くん」まで抜けている。
桐ヶ谷はひとつ鼻を鳴らすと、得意げな笑みを形作った。
「春人なんて春人で十分よ」
「そうかよ……」
もはや言い返す気力も湧かず俺は思考を放棄することにする。
いくら俺の知らないところで煙が立とうとも、実害がなければそれでいいじゃないか。そんな投げやりな考えにまとめ投げ捨てる。付き合ってるとかなんだとか、根も葉もない噂が流れたとして、俺は彼女を作りたい訳でもないし、桐ヶ谷はそんな噂に困るようならこんなことをしてこないはずだ。
朝練に励む運動部たちを横目に見ながらグラウンド脇を通り抜け下駄箱で靴を履き替える。二年生の教室が並ぶフロアに出ると興味の目が鬱陶しかったが、ただそれだけだ。
「お昼ご飯はどうしようかしら」
「さすがに教室じゃ食わないぞ」
果てしなく面倒に感じながら教室のスライドドアを開ける。にわかに騒がしいゴールデンウィーク明けのそこは、早くも連休が抜けない五月病患者にあふれていた。そんな中で変わったことは、いつもは窓際にいる聖性が俺の机の隣にいることだ。
「おはようございます。田崎くん」
そうにこやかに微笑んだ林は五月病ワクチンにも等しい神聖さを放っている。具体的な効能は俺のだるさ消失と、桐ヶ谷がわずかにたじろいたことぐらいか。
「ああ、おはよう」
なにかあったっけ、と思い出すも特になかったはずだ。そう首をひねった俺に林は胸の前で抱えていたスケッチブックを差し出す。
「ゴールデンウィークに一冊終わってしまったので、良かったら田崎くんに見て欲しいな……と思いまして」
「ああ、そうだったんだ。ありがとう」
「い、いえ……では!」
スケッチブックが俺の手に渡ると林はそそくさと自分の席に戻っていってしまった。俺は宝物を受け取った気分になりながら、優れない表情で何かを考えている桐ヶ谷に向き直る。
「悪い。今日の昼飯は別々で頼む」
「そう。まあ、いいわ」
やや機嫌を損ねたような桐ヶ谷の態度に、俺は何か言葉を発しようとしたがそれよりも担任の四ノ宮が教室に入ってくる方が早かった。
「ホームルーム始めるぞー」
その一声にガタガタと自分の席に着くクラスメイトたち。桐ヶ谷も席に座って四ノ宮が配るプリントに目を通していた。
「今配ったのはこの間にアンケ取った三者面談の日程な。とりあえず希望日には沿うように組んだから大丈夫だろう。変更等あったらすぐ言うように。それから……」
つらつらと四ノ宮がコンパクトに用件を話す。来月の中間テストで、中だるみして点数を落とすと後々の内申に響くとか、そんなことだ。
桐ヶ谷には後で詫びようと考え、俺は意識を切り替えた。
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