第27話 月はひとりで輝く

「面白かったわね。さすがに原作のダイジェストっぽくはなっていたけれど」

「そうだな。原作を観てみたくなった」


 展望台から見る東京の夜景は壮観だった。それはさながら地上にばらまかれた星のようで、対照的に空に輝くのは月だけ。なんだか皮肉な景色に俺は背を向ける。

 正対した桐ヶ谷は一日動き回ったのに変わらず綺麗なままだった。


「あら、悪いことをしたかしら」

「そんなことはない。内容は頭に入ってきたよ」

「だったら、今度はどちらかの家で映画鑑賞にする?」


 ごくごく普通を装って桐ヶ谷は次のデートを誘う。話の流れにも自然だったし、今日のデートも楽しかった。首を縦に振ることはあまりに簡単だったのに俺は口ごもった。


「ああ……」


 理由は明白。俺は桐ヶ谷の好意を拒絶することも、素直に受けることもできない。否、したらお互いが不幸になるからしない方がいいと理性が押しとどめる。

 そのことが、俺のわがままが、とても申し訳なく情けなかった。


「どうしたのよ。らしくないわね」


 俯きがちになった俺を桐ヶ谷は覗き込んでくる。ふわっと香水が掠めて傷跡が疼く。

 桐ヶ谷の黒い瞳の中で、俺の顔が不細工に歪むのを見た。


「ごめん……」


 それを見続けたくなくて逸らす。目頭がどうしようもなく熱いのに頬を伝う涙はない。肺が呼吸できないほど締め付けられるのに漏れる嗚咽はない。


「はあ」


 呆れたように、大きく息を吐くのが聞こえた。


「こっちを見なさい。春人」


 棘のある声。俺は固まった首を無理やり回して視線を合わせる。無視を許さない、口答えを叩き切るだけの怒気が呼び捨てられた名前には込められていた。


「あなたが私といる間、紺野千尋のことやどうしようもない自己嫌悪を蒸し返していたのは分かっていたわ」


 それが今日だけを指していないことを俺は悟る。胸に秘めていれば桐ヶ谷には伝わらないだろうなんて考えが甘かったのか。俺は歯を食いしばって非難を待つ。

 持ち上げられた桐ヶ谷の手がそっと頬に触れた。

 紡がれる声音は柔らかい。


「仕方のないことよ。一月で忘れられはしないでしょ。どうせ春人のことだから、私で埋め合わせしようと思っても義理堅さが勝って手も出せなかったでしょうし」


 緩やかに繊細な指が動く。

 慰撫するような、壊れ物に触れるような、そんな触れ方だ。


「春人から私に何かする時は大体強がりだったわ。隠せていると思った? 残念ね、好きな相手をちゃんと見ていない訳がないじゃない」

「ごめん」


 さり、と頬骨を親指が撫でた。


「謝らなくてもいいわよ。すぐに乗り換えるような軟派な真似をしたら、それこそ愛想が尽きていたわ。自分で言っていたじゃない『時間がかかる』って。私が『待つ』って言ったのも忘れてしまった?」

「……ごめん」

「さっきから、そればかりね」


 桐ヶ谷は口角を少しだけ持ち上げて困ったように笑う。


「どうしたら割り切れるかなんて私も分からないわ。でもまだ時間はあるもの。ゆっくり考えることも必要だと私は思うわ」


 それに甘んじてもいいのだろうか。

 俺を映す黒の瞳は微かに揺れていた。それは意志をもって放たれた言葉とは裏腹に、桐ケ谷の不安や焦燥といった感情を、ひっそりと伝えているよう。俺は閉じた口の中で強く噛み締める。それでいいはずがない。

 それでいいはずがないけど、俺がどうにかしないと桐ヶ谷もどうにもできないんだと気付かされた。

 だから桐ヶ谷は待っているんだ。

 文化祭から……


「こんな俺で、ごめんな」


 するりと抜け出た言葉は、さっきまでの謝罪と違って温度があったように思う。桐ヶ谷の指が頬の肉をちょっとだけ摘んだ。


「本当よ。うじうじして情けないんだから」

「いてて」


 最後に強めに抓って、桐ヶ谷の体温が離れた。それがどこか名残惜しくもある。心の矛盾に眉を寄せていると、桐ヶ谷はなにが面白かったのか吹き出した。


「変な顔ね」

「うるさい」

「変な顔の春人も好きよ」


 夢から覚めたと思っていた。それは間違いじゃない。

 けど夢を捨て切れてもいない俺がいることに気づかせてくれた。




 帰りの下り電車はそこまで混雑していなかった。「いいわよ」と言って降りさせまいとする桐ヶ谷を押し切って、桐ヶ谷の最寄りの改札まで同行する。


「デートもこれでお終いね」

「映画鑑賞、するんだろ?」


 寂しげに繋いだ手を揺らす桐ヶ谷にそう返すと、吹っ切れたように手と手が離れた。


「そうね。ゴールデンウィークが明けたら学校で毎日会うことになるから、悲しみ損した気分だわ」

「土日は休みだぞ」

「当たり前じゃない。そうじゃないとデートもできないわよ」


 朗らかに桐ヶ谷は改札を通り抜ける。その背中を呼んだ。


「あかり」


 振り返ったのを見てから持っていた袋を緩く投げる。中身に重さがないのと、柔らかかったおかげで特に何もなく桐ヶ谷に渡った。


「何? これ冬木さんへのお土産じゃないの?」

「それは嘘だ。プレゼントだよ。帰ってから……っておい」


 開けろよ、と言い終わる前に桐ヶ谷は袋の口をがばっと開いてプレゼントを引っ張り出した。雰囲気もなにもあったもんじゃない。


「クラゲ……?」

「ああ。気にいるかなと思って」

「嬉しい。ありがとう」


 桐ヶ谷は直径五十センチくらいの円形をした、ミズクラゲのクッションをぎゅっと抱き締めた。喜んでもらえて良かったと密かに安堵する。


「じゃあ、また学校でな」

「ええ。プレゼント大切にするわ」


 踵を返してホームに降りる。駅前のロータリーに一台の車が止まってハザードランプを点滅させていた。多分桐ヶ谷の父親が運転席にいるんだろう。乗り込むのを見る前にやって来た電車がホームに立つ俺の視界を遮った。

 俺はそれに乗って端の席に座る。冬木に連絡を入れるかと、久々にスマホの電源を入れたら桐ヶ谷からラインが来ていた。送信されたのはついさっき。


『今日は本当に楽しかったわ。ありがとう』

『写真を送信しました』

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