第20話 迷子の妖精は夢を見たい

 林にコピ・ルアク用に別のカップが供され、改めて二すじの湯気がゆらゆらと揺れる。ちょっと緊張し気味な林を見て俺は小さく苦笑を漏らし同じく姿勢を正した。

 店内は俺と林以外だけで、幹宏がキッチンで食器を洗う音が微かに聞こえてくるばかり。向かいの席の林はカップを両の手で支えながら静かに俺を待っている。それに促されて俺はするりと言葉を並べる。


「実はさ。借りた週には読み終わっていたんだ。だけど考えがモヤモヤして分からなくて、上手く言葉にできなかった。返却期限までに感想を伝えられなくてごめん」


 誠意を持って頭を下げた。それは本を勧められたことに対する誠意で、結んだ約束を守れなかったことへの責任だ。


「顔を上げてください。こうしてお話する機会ができただけでも、わたしは嬉しいです」


 あの図書館にいる時のような柔らかな雰囲気を纏って林は微笑んだ。


「聞かせていただけますか」


 続いたのはどこか強い意思を感じさせる言葉。やはり、ただただ善意だけであの本を勧めた訳じゃないんだろう。俺はそれを知るためにも先に口を開いた。


「これは単なる読者として、純粋に面白かった。全体的にファンタジーでおとぎ話のような感じなんだけど、ところどころに散りばめられたブラックジョークがシリアスな笑いを誘ってくる。主人公が現状と理想の間で四苦八苦しながら……それでも理想を叶えようとしたところなんかはすごく共感できた」

「それはわたしもそうですね。どうにかして夢の中に居続けたいっていう気持ちはすごくわかります」


 うんうんと林が頷く。俺は一呼吸入れつつ喉を潤した。頭の中で『夢が覚めるまで』の内容を思い返しながら、同時に頭をフル回転させる。


「あのストーリーの中で、その試行錯誤がキーになっていると俺は思う。色んなことを試しては失敗する。でもそれが逆に不思議だった。その夢に向けた熱意をどうして主人公は現状に向けなかったんだ? 狩人と画家を両立させる道とか、あるいは画家として大成する方法を考えた方がよっぽど現実的なはずなんだよ。けど主人公はそうはしなかった」


 一見すると物語自体に破綻はない。絵を描く夢を見れるから、そこで理想を謳歌したいと願う。だけど絵に描いた餅が食べられないように、それは実在しないものだ。たかが絵本と言えども、あそこまで痛烈な最後を書いた物語がその現実を考慮しないはずがない。

 それに対する答えは、物語の外にあった。


「日本語訳版の絵本じゃない。原作を小説化した本があの図書館にはあった。それを読んでみると大きく違う所がある。試行錯誤をするようになるキッカケに、狩られる側のはずの鼠が登場するんだ。彼は狩られたくない一心で主人公に夢を長く見ることを提案する。この鼠によって、主人公は夢に理想を見出すようになる」

「そこまで読んでくれるとは思っていませんでした」


 ふふっと嬉しそうに林がほほ笑む。それはまるで妖精のように儚く、野花のように可憐に映った。俺はその秘する領域に足を踏み出す。


「まだ終わりじゃない。そうして夢を膨らませていった主人公は、自画像という形で理想を破綻させる。そして原作にもその後のことは一切書かれていない。『夢から覚めたあと』の主人公を誰も知らないんだ。……つまりそういうことなんだろう?」


 俺はある種の確信を持って林と目を合わせた。

 妖精。その比喩がふさわしいと改めて思う。

 ファンタジーによく出てくる妖精は不思議な雰囲気を持ち、そして人を試すことも多い。


「はい。その通りです」


 林は首肯し俺の推測を認めた。


「やっぱりそうか」


 この『夢から覚めるまで』は、よくよく読めば非常に俺が辿った高校の一年間に似通っている。夢、つまり『イケてる自分』を作ることに熱意を燃やし、夢の中で沢山の仲間とつるんで遊ぶ。そして紺野と付き合いリア充の高みを得たところで、唐突に現実に叩き落される。

 いっそ怖いくらいの一致だった。


「あの物語の先を誰も知ることはできません。主人公が幸せになったのかも、不幸せになってしまったのかも。答えは作者のなか。わたしはそれを知りたい。なので田崎くんが読んだら、どういう答えを導くのかとても興味がありました」


 林に対して、憤りや怒りといった感情は不思議と一切湧かなかった。それは林の両目がしっかりと俺に据えられ、言葉一つでさえ大事だと、その態度をもって示し続けていたからに他ならない。

 ならばこそ、相応の意思で応えなければならないだろう。


「俺にもまだよく分からない。紺野にフラれて良かったのかどうかなんて。振られなかったら一年と同じ生活をしていたかもしれないし、振られて今の俺とはまた違うことになった未来もあるかもしれない。結果的には振られて、その傷はまだ癒えてない」


 現に桐ヶ谷に照らされては影に浮かび上がる紺野から逃れられないように。

 紺野が抜けた穴は未だ塞がりきらず、たまにそれがどうしようもなく虚しく思えることもある。

 人を好きになるということ。

 付き合って特別な関係になること。

 そしてそれが唐突に失われてしまうこと。

 それらはぐしゃぐしゃに絡まった毛糸の玉のように複雑で、解ききって整理するのにはまだ時間がかかるだろう。


「……」


 だけど……それでも待つと、いや惚れさせると宣言した桐ヶ谷が俺の胸の片隅で存在を主張する。高校デビューして、イケてる奴らとつるんで、文化祭で暇して、手助けしなければ繋がりようもなかった桐ヶ谷との縁。


「でもさ、今の俺がいるのはそういう過ぎたことがあったからこそだとも思う。たまに悲しかったり、辛かったりすることもあるけど、後悔はしてないよ」


 俺は強がりでもなく笑ってみせる。

 それに息を飲んだ林は、花のように表情を綻ばせた。傍のバッグから今日何度か見たスケッチブックを取り出す。


「試すような事をした上に厚かましいお願いでごめんなさい。これをどうぞ」

「……見てもいいの?」

「はい」


 見えない境界線の、ちょうど中央にあったようなスケッチブックを引き寄せて開く。パラパラとめくっていくもひたすらに白黒の線、線、線。無数の黒で作り上げられたのは人であったり、様々な動植物、もしくはここではないどこかの喫茶店の店内だったりした。

 緻密に描き込まれたそれらはまるで生命が宿っているかのように美しく、そしてどうしようもなく儚い。


「どう、ですか……」


 俺は圧倒的な画力に言葉をしばし失い、その研鑽に尊敬の念を抱いた。

 同時に初対面の時に言ってた本のジャンルについても合点がいく。恐らくは作画の資料か何かなんだろう。図書委員になったのも、あの蔵書であれば林の求める資料もあるからに違いない。

 そこまで語彙が回復したあたりで、俺はようやくスケッチブックから目を離した。


「すごいよ。絵心ないからすごいとしか言えない。ごめん。でも本当にすごい」

「て、照れます……」

「いやー、すごいなー。見せてくれてありがとう」


 本当はもっと見ていられたが林の頬が林檎色に染まり出したのでお返しする。絵本からスケッチブックだと関連性があるようでない。俺は話の続きを促した。

 林は意を決したように組み合わせた手を握りしめる。


「わたしからのお願いは、田崎くんに『夢が覚めるまで』に出てくる鼠さんのような案内をして欲しいんです。夢で終わるか、現実となるかも含めて」


 それは誰にも務まらなさそうな役になって欲しいという『お願い』だった。

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