第19話 コピ・ルアク

 席に戻ると、またもスケッチブックを林が仕舞うところだ。趣味に絵を描くのもあるんだろうか。気にはなったがあえて突っ込まない。俺が逆の立場だったら、そもそも画力がないが、自分の描いた絵を他人に見せるのは緊張する。

 わざわざ何か言うほどでもないと思う。


「田崎くんは、『デ・ローザ』でバイトをしているんですか?」

「そうだな。上の階がアパートになってて、そこに住むついでって感じだ」


 コピ・ルアクについて聞くタイミングは、林から話を振られたために逸してしまった。説明不足に林が首を傾げるので俺は言葉を繋ぐ。


「マスターがアパートの家主もやってるんだよ。ついでにそのマスターと知り合い」

「そうだったんですね。ちょっと羨ましいかもしれません」

「羨ましい?」

「だって階段を降りるだけで美味しい喫茶店があるんですよ」

「なるほどな」


 喫茶店が好きな林にとっては、確かにたまらない好物件なんだろう。普段は大人しく振りまかれる聖性も微量であるのに、好きなものとなるとその抑えが効かなくなるようだった。俺の心の中の悪しき何かが滅却されそうだ。

 そんなものは多分ないけど。


「お待ちどう」


 そんなやり取りをしているうちに料理ができあがったらしい。幹宏が音も立てずテーブルに並べる。そのままカウンターに戻ったあたりで、お互い手を合わせた。


「いただきます」

「頂きます」


 言葉もそこそこに俺はカツサンドを手に持つ。厚切りのカツとキャベツが挟まれ、少し潰してある昔ながらのカツサンドだ。

 果たしてその味は、文句なく美味かった。

 向かいの林も表情を綻ばせている。


「美味しいです」


 食事の間は会話もほとんどなかった。ランチつながりで林はよく学校の昼食にパンを買ってきている事や、メロンパンが好みなことが分かったくらいだ。

 それは俺に話すべき事があったからだし、多分それに林もまた気づいていたから。


「何か、デザートでも食べる?」

「残念ながらオムライスでお腹一杯です」


 皿が引き取られ、代わりにカップが二客用意される。そこに黒々とした液体が注がれると何とも言い難い芳醇な香りが立ち上った。


「林はコピ・ルアクって知ってるか?」

「知っていますよ。滅多にお目にかかれない幻のコーヒーです」


 優しく微笑む林から、テーブル脇に直立する幹宏に視線をずらす。無骨なその顔はしかし俺の意図を正確に読み取って肯定の意を示していた。

 詰まる所、この幻のコーヒーとやらも両親経由で渡ってきたものだということだ。それならなんとなくではあるが俺が使いに出された理由も察せられる。


「ちなみに、一杯どのくらい……?」

「下手したら数千円……ではないでしょうか」


 俺はちょっと自分の財布を気にした。


「安心していい。今回限りブレンド価格で振る舞おう。注文通りアメリカンにしたが、そちらの友人も良ければ味わってみるといい」

「ありがとうございます」

「えっ、えっ? 本当にコピ・ルアクを……ですか?」


 混乱から立ち直らぬままの林を俺に投げて、常連客らしい老夫婦の会計に幹宏は向かう。どういうことですか、と林が真剣な眼差しで訴えかけてくる。

 俺はちょっと肩をすくめた。


「豆を俺の親が入手したんだ。だから特別価格だってさ」


 カップに口をつける。フワッと口当たりがよく、どこか高貴さすら漂わせる風味が体を抜けていく。一杯数千円と言われても納得してしまうような、飲んだことのない独特なコーヒーだった。


「随分変わったご家庭なんですね……?」


 よく言われる。

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