第32話 自宅の流失~氏家悠吾の奉職
自宅に向かって駆けだそうとしたところで、左腕を掴まれた。先ほどまでダベっていた友人の一人、吉井だった。
「どこ行く気だ。見て分かんだろ。降りてったら死ぬぞ」
吉井の言うことは分かる。真っ黒い津波は漁船だけでなく、海辺の住宅や木々をもなぎ倒し、氏家らがいる高台へと迫っていた。2階建ての漁協事務棟に漁船が突き刺さるということは、津波高はゆうに10メートルはある。今いる場所は事務棟より20メートル以上は高いので大丈夫だろうが、海辺に降りることは死に直結するだろう。
ただ、事務棟の近くには氏家の自宅がある。午後4時前の今頃は、いつもなら祖父母が昼寝から起きだしてくる頃だ。
「じいちゃんとばあちゃん、見捨てろってか!」
氏家が左腕を振りほどくと、吉井は頷いて「お前んちのことは分かってる。でも、無理だろ。よく考えろ」と続けた。吉井の家も氏家宅のそばで、確か祖母がいたはずだ。緊急時にも冷静さを失わない竹馬の友に、頭が下がった。
「あの揺れだ。普通に考えて、避難してるはずだろ」と肩を抱いてきた吉井の考えにすがり、氏家は、二人を見捨てるのではないと自らに言い聞かせた。確かに、地震から津波まで50分くらいの時間があった。惣一とカツも逃げたはずだ。そう信じ込むことで、氏家は気持ちを落ち着かせようと試みた。
吉井に促されて戻った体育館には、既に大勢の町民が避難してきていた。ほんの2時間ほど前まで、子どもたちの旅立ちを見守るスーツ姿の保護者が居並んでいたのに、今は着の身着のままで逃げてきた老若男女がひしめき合っていた。聞くと、道路向かいの小学校も、隣接する町役場の1階や議会棟も人でいっぱいだという。
氏家は人波をかき分けて祖父母の姿を探した。中学側にはいない。小学校の方にもいなかった。次第に焦りが募る。小学校の体育館にいた弟を連れ、役場に向かったが、こちらも空振りに終わった。冷たい汗が背筋を伝う。「氏家惣一とカツはいませんか!」。議会棟に飛び込み、大声で叫んだが、返答はなかった。
弟が氏家以上に顔を曇らせ、涙をこらえているのが分かったので、額を小突いてハッパをかけた。「大丈夫。じいちゃん漁師だぞ。津波なんてきっと乗り切って、どこかにいる」。弟に向けて放った言葉は、自らを鼓舞するものでもあった。
結局、その日は中学の自分の教室に身を寄せた。もう来ることもないだろうと思って卒業式に臨んだのに、小学生の弟も一緒にまた戻ったことに違和感があった。そうは言っても、暗くなって海沿いが見えなくなったことで安全性が確認できなくなったし、津波が再び来ないとも限らない。役場と相談した教師陣が学校に留まるよう指示したのだった。
教室に泊まるのは、もちろん初めてだ。仙台に働きに行っている両親とも連絡が取れない。停電のため真っ暗闇の教室の雰囲気も相まって、氏家は惣一とカツのことを考えて胸苦しくなった。チョークの臭いが鼻につき、訳もなく白墨が憎たらしかった。
まどろむことさえできないまま一夜が明けると、高台から見下ろす海沿いに、衝撃的な光景が広がっていた。
家が、なかった。
(続)
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