第30話 海沿いの生家~氏家悠吾の奉職
「お疲れさまです。失礼します」
氏家悠吾は校舎入り口のソファに座っていた来校者の前でピタッと立ち止まり、帽子を取って頭を下げると、一拍置いてすぐ、小走りで体育館に向かった。坊主頭にジャージー姿。これから体力の錬成の課程で、今日は10キロ走が行われる。
氏家は県庁所在地S市の南隣、N市にある警察学校に在籍している。福島県の大学を卒業し、そのまま入校した。丸坊主はもちろん、初日に携帯電話まで取り上げられて、軍隊式の声出しからスタート。無理やりスイッチを切り替えられるような前時代的やり方が規律を重んじる警察らしく、ますますやる気が漲った。
1週間後の入校式には、背筋がピンと張った青年に変わっていた。「警察官は立ち姿が美しくなければならん」。教官の持論というより、警察全体の考えのようだった。「じいちゃん、ばあちゃん、俺、頑張るぞ」。氏家は学生代表の宣誓を耳にしながら、警察を志すきっかけをくれた祖父母に心の中で誓った。
氏家は1995年、S市の東に位置するS町に生まれた。町役場や小中学校といった中心街は小高い丘の上にあり、丘を囲むように大小さまざまな集落が海沿いに点在する町だ。電力会社の発電所が海沿いにある程度で、地場産業は漁業ぐらい。多くの大人はS市に職場があった。
祖父母と両親、弟との6人暮らしだった氏家は、両親がS市内で共働きしていたこともあり、祖父母に育てられた。
祖父の惣一は元漁師。年を取って引退したが、ノリの養殖を長年手掛けてきた。海の男らしく豪放磊落な一方、礼儀作法には滅法うるさく、目上の人間に対する態度が悪いと、よく殴られた。長年、養殖いかだやロープをたぐってきた両の腕は丸太のようで、手が出る時は「ブン」と腕を振り回す音が聞こえたものだ。いきおい、氏家は礼儀正しい少年になった。
祖母のカツは反対におっとりした性格で、「悠ちゃんは稼ぐねえ」が口癖だった。子ども時分のこと、もちろん氏家に収入がある訳はなかったが、風呂掃除や配膳の手伝いなどをすると決まって、そう言われた。茶碗を落としても「大丈夫がい?」と氏家の体を気遣う人で、怒ったところは見たことがなかった。剛の惣一に柔のカツ。人間とはうまくかみ合うものだと、子供心に得心した。
そんな二人が常々、氏家と弟に言い続けてきたことがあった。「公務員さなれな」。漁村に生まれ育ち、学問の機会に恵まれなかった二人は、惣一が海の上、カツが家事と子育ての傍ら魚介を売り歩き、何とか生計を立ててきた。それだけに、子弟には勉学に励ませ、余裕のある暮らしを送らせたいという思いがことのほか強かった。
礼儀作法やものの考え方だけでなく、遊びも二人に教わった。特に男孫のこと、惣一は氏家にとって格好の遊び相手でもあった。漁師だったこともあって自宅は海に面した場所にあり、2階にある氏家の部屋のベランダから釣りができるほどだった。海を熟知した惣一はさすがに竿使いがうまく、ものの数分でバケツいっぱいの魚を釣り上げることもあった。部屋が魚臭くなるのは叶わなかったが、ほかに大した娯楽もない田舎集落のこと、惣一に教わる遊びが氏家のすべてだった。
刺激は少ないものの、祖父母に見守られ、穏やかでのんびりした子ども時代。そうした氏家の世界は、皮肉なことに慣れ親しんだ海によって壊された。
氏家15歳。中学の、卒業式当日のことだった。
(続)
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