第15話 いつもの座席~福田禎一の街づくり
福田の母君代が最後まで生きようともがいていた頃、長男隼人はうみどり福祉会の従業員が運転するマイクロバスの中にいた。
I市中心部のスーパーで被災した。経営者の肝いりで、福祉会で育てた農作物を扱ってくれるありがたい存在。「作物が取れない冬場も、お付き合いを欠かしてはいけない」。そうした君代の考えの下、段ボールの片付けなどバックヤード作業を手伝っていたところ、下から突き上げるような揺れに襲われた。
自分が2センチくらい浮き上がったのではないかと驚くほどの縦揺れの後、激しい横揺れに見舞われた。隼人は、スーパーの敷地の地面と、隣接する市道の路面が互い違いに横ずれするのを目にした。まるで幼い頃に歩く練習をしたスキーの板のように、地面同士が交互に擦れるように動く。次第に立っていられなくなり、隼人はバックヤードに腹ばいになって耐えた。
時間にして数分ほどだったと思うが、知覚過敏の症状がある隼人はパニックに陥る寸前となった。大人になってからは幼少期ほどではなくなったにせよ、今でも常にない状態に置かれると、そわそわして嫌な気分になる。いつもの時間、いつもの場所で、同じような行動を取ることで心の平静を保ってきた隼人にとって、尋常でない揺れはさながら化け物との遭遇に近かった。
取り乱し、いずこかへ走り去ってしまいそうになるところで、福祉会の従業員がバスに乗るよう叫んだ。揺れが収まったから、後片付けに追われるスーパーの邪魔をしないよう、電話で指示を仰いだ君代の発案で施設に戻ることにしたという。「隼人の席はここね」。君代が決めた、いつものバスの、いつもの席が気持ちを落ち着かせてくれた。
バスは施設に向け、I市を東西に貫く県道を東の方向―海の方角へと走った。次第に反対方向の車線が混んできた。どうやら海手から逃れてきたようだった。「気象庁は県内に津波警報を発令しました」。運転席のラジオが大きな津波が押し寄せる可能性があると伝えていた。
警報を耳にしても、運転手に迷った様子はなかった。うみどり福祉会は海から1キロは離れている。これまでにも津波警報が出たことはあるが、漁港で数十センチほど水かさが増した程度で済んできた。当時、誰の心の中にもあった思い込みが、君代の指示を危ぶむ気にさえさせなかった。
ふいに、バスの前面に黒い点というか、横線が見えた。一瞬で見えなくなったと思ったら、1キロほど先にある藩制時代に築かれた堀ののり面から真っ黒な壁が一気に姿を現した。7、8メートルはあろうかという巨大な壁が徐々に迫ってくる。田園地帯を越え、住宅街に入り込むと次々に家屋を呑み込み、街路樹や庭木もなぎ倒し、ずんずん押し寄せてきた。
運転手は慌ててハンドルを切り、県道をUターンしようとした。こんな時、人数は運べるものの図体がでかいバスは、やっかい物でしかない。1回では曲がりきれず、ハンドル操作を続けているうちに後部から強い衝撃が襲ってきた。
「は、や、と、の、せ、き。こ、こ、は、や、と、の、せ、き」
同じ文句をつぶやきながら体を前後に揺すっていた隼人の中で、何かが切れる音がした。途端に抑えが効かなくなり、叫び声を上げた。立ち上がり、運転手の元に駆け寄って、飛び付いた。恐怖感を和らげるために隼人と君代が繰り返してきた儀式が、それ以上の運転操作を不能にした。
施設通所者と従業員の計19人が乗ったバスは第一波の衝撃で横倒しになり、県道脇の農業用水路にはまったまま動かなくなった。その上を、墨汁のような寄せ波と引き波が二度、三度と打ち寄せた。
(続)
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