第14話 水没する街~福田禎一の街づくり


 君代は慌てて玄関に駆け寄り、水没する前に外に出ようとしたが、外開きのドアは水圧のせいでピクリとも動かなかった。窓も同様に少しもスライドせず、無理に動かすとガラスが壊れる恐れもあった。


 この期に及んで窓の心配も何もないものだったが、極貧生活から這い上がった息子の努力の象徴を、自分が壊すわけにはいかなかった。


 君代は二階に駆け上がった。窓の外は辺り一面、海に変わっていた。二階建てが平屋に、平屋は棟だけを残して水没していた。ちょうど地面が一階分沈んだような情景に声を失ったが、地獄絵図はここからだった。


 目の前を家が流れていく。寄せ波が浮き上がらせた住宅を、引き波が押し流していく構図だ。君代同様に二階部分へ逃れた住民が、恐怖を顔に張り付かせたまま海へと引き込まれていった。元は村だった田舎街のこと、多くは顔見知りで、窓辺に君代を見つけて助けを求めるような格好で流されていく人もいた。


 君代は呆然とするばかりで、救助など及びもつかなかった。海という名の悪魔がいるのなら、引き込んだ人間を食らっているように思えた。津波は第一波だけで終わるものではない。海沿いに住む身としてそのくらいの知識はあったので、今は波に耐えているこの家も第二波、三波に対してどれほど抵抗できるかは知れなかった。


 隼人を、子どもたちを守らなければならない。


 ふいに、うみどり福祉会の実務の担い手としての責任感が顔をのぞかせた。自分が死んだら、あの子たちは寄る辺を失う。障害を持つ子たちがようやく見つけたやりがいを、達成感を、働いて賃金を得た時の笑顔を、なくしたくなかった。


 「ば、あ、ち、や、ん、に、な、に、か」。さして多くもない工賃を初めて手にした後、隼人が口伝えにそう言ってきた。プレゼントをくれると言う。その言葉だけで、これまでの苦労が何もかも報われた気がして、声にならなかった。寄る辺をなくすのは、君代とて同じだった。


 意を決し、二階の窓を開けた。途端にゴーっという音が耳に入った。引き波が人や住宅、車、木々を海へと引きずり込んでいく音だった。「助けてー」。住宅ごと流された人の声も混じる。


 近くにあった椅子を引き寄せ、座面に足を乗せて窓枠を越える。そのまま一階の屋根を壁伝いに歩き、雨どいまで行こうと試みた。雨どいまで行ければ、二階の屋根に這い上がれると考えた。その先、どうするかは思考の外だった。


 誤算があったとすれば、靴を履いていなかったことだった。


 地震の後はガラスなどが散乱していることもあり、住宅内の確認は靴のまま行う方が安全だ。ただ、苦労の掛け通しだった息子が建ててくれた努力の結晶を、まさに土足で汚すような気がした。福祉会で履くスニーカーを脱ぎ、そのまま二階に逃れたため、靴下のままで津波で濡れた屋根を歩くことになった。


 雨どいに手がかかりそうになった瞬間だった。手先に集中するあまり、足元の確認がおろそかになっていたのだろう、雪止め金具を踏んでしまった。折からの寒さでかじかんだ足に激痛が走り、壁から手を放して足を触ろうとかがんだ。その刹那、君代の体は壁と反対方向に転げ、墨汁のような色の水に吸い込まれた。


 生まれたばかりの福田が、顔を真っ赤にして泣いている。父親の葬式の意味が分からず、棺の中の顔を触る小学生くらいの福田も見えた。腹を空かせ、近所の畑の大根をジッと見つめる姿もあった。ふいに、学生服姿の福田が腰のベルトに手ぬぐいを下げ、鶴嘴を手に出掛けていく光景に移った。続いてランニングシャツにヘルメット姿の男たちと肩を組んで笑う福田。幼い隼人を抱く幸と、笑みを浮かべて寄り添う福田はまだ若い。


 走馬灯って、こいなんだべかー。あいやぁ、お父ちゃん、随分待だすたなやぁ。オラもそっちさ行ぐみでぇだ。禎一はもう、大丈夫だ。女学生仲間にゃ、トンビが鷹生んだみでだって言われでる。今じゃ近在に並ぶ者もいねほどの社長様だ。あんなにちぃっこかったワラスが、えれぇでっかぐなってわぁ。ほんでも、あれから貧乏になっちまったんで、苦労に苦労ば重ねで。んだども最後は立派な家までこしぇでけだんだ。オラ、禎一のおかげで、えれぇ幸せだったでば。んだ、隼人って孫までいんだでば。こないだ、なけなすのカネでスカーフさ買ってけだんだ。赤くって綺麗でなやあ。んだがら、いっぺ話っこあんだでば。


 その思考を最後に、君代の意識は途切れた。


(続)

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