第8話 49日後~日下洋子のウエディングドレス
6年が過ぎた。
不惑を数えた洋子が台所仕事に精を出していると、2人の子どもが駆け寄ってきて、膝元でじゃれ合った。まもなく5歳になる女の子と、3歳の男の子。洋服への思いは断ちがたかったが、仕事はきっぱり辞め、子育てに専念してきた。
女の子には母の芳江から一字をもらい、「芳乃香」と名付けた。ほのか、と読ませる。芳しい香りがする日だまりのような、人を癒やすことのできる素敵な女性になってほしいと願いを込めた。芳江のように。
芳江と父の喜一郎を見送ったのは、あの大津波から半月ほどしてからだった。
N市は海沿いにあった斎場も被災しており、海水や泥、がれきが入った火葬炉を復旧させる必要があった。あまりに多くの人間が一時に犠牲になったこともあり、いったん土葬することを決めた市もあったようだが、再び掘り出して火葬する「改葬」は遺族を2度悲しませる。N市では炉を応急復旧させる方針が取られていた。
「キいっちゃんには、えれえ世話んなってねえ」
炉の扉が閉められた後、たまりかねたように場長だという男性が近寄ってきた。2人とも沿岸部の出身だったことから、市議会議員と市役所職員という関係を越えた付き合いがあったそうだ。芳江とは小、中と同級生だったという。
こんな時、他人から死者の人物評を聞くほど辛いことはない。火葬場にいるのに、おかしな話には違いないが、肉親の唐突な死を考えまいとする自分もいる。「お忙しいところ、ありがとうございます」。意図を酌み取ったのか、場長は後味の悪そうな顔で職務へと戻っていった。実際、仕事は山のようにあるようだった。
斎場の煙突から出る煙を眺めてから1カ月ほどした頃、洋子は医師に妊娠を告げられた。このところ、ずっと体調不良で、心労のせいかとも考えたが、吐き気が日増しに募ることから婦人科を受診したのだった。
「49日、経ったがんなあ。キいっちゃんが、芳江さんだが、どっちがの生まれ変わりがもしゃねな」
当然、まだ性別は分からないが、そうか、その可能性はある。いや、あると思いたかった。基礎だけとなった実家跡のように、何の感情の起伏もなくなっていた洋子の心に、ある種の明かりが灯った瞬間だった。
ほどなくして女の子だと判明した。「あー、くっきり線が見えるわ」。お腹にエコーの機械を当てる医師が、返答に困る表現で性別を教えてくれた。芳江の生まれ変わりに違いない。気持ちが浮き立つのが分かった。
十月十日を経て洋子は元気な女の子を抱き、大津波の後、夫婦二人きりで過ごしてきた白黒写真のような生活に色味が宿った。さらに数年して男の子(喜一郎から一字拝借して「瑛喜」と命名した)も産声を上げ、S市のマンションはさらににぎやかになった。
「お前さえ良ければなんだけど。家、建てないか? できれば、N市にさ」
子どもたちが寝静まったある晩、夫の隆がそう切り出した。にぎやかなのは良いものの、マンションが手狭になってきたのも確かだった。S市の生まれで、マンション暮らししか経験のない隆の気遣いが、何よりうれしかった。
ずっと気になっていたこともあった。子育てに追われ、家の狭さを言い訳にして、仏壇もないまま遺影と位牌を片隅に追いやっていたことだ。
衣装ダンスに仕舞ったままにしていた唯一の遺品、ウエディングドレスの存在も宙に浮いていた。
(続)
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