第6話 キいっちゃん~日下洋子のウエディングドレス

洋子の父、大友喜一郎は1947年、N市海沿いの漁師町に生まれた。実父は旧陸軍の所属で、集落にあった高さ約6メートルの丘の上で海を監視し、敵軍が押し寄せてこないかどうか目を光らせる仕事に就いていたが、終戦とともに闇市から仕入れた物資を転売する商いに転じた。今も続く大友雑貨店の初代になる。


物のない時代、実父の仕入れてくる物資は近隣住民にとって宝の山で、多くの漁師たちが刺身や干物、貝類などの海の幸と交換していった。それら海産物を隣町で人口の多いS市に運び、現金に換え、闇市での資金に充てるという好循環が商いを大きくした。


いきおい、大友雑貨店には多くの人が訪れるようになり、社交場のようになる。そうした環境が、後まで続く喜一郎の社交的な性格を形作った。



100人がいたら100人が、喜一郎と言えば笑顔だと答えた。戦後の混乱期にカネとモノがある家に生まれれば、やっかみの対象にもなる。子供の世界でも、今で言ういじめに通じる暴力や冷遇が日常茶飯事だった。多くの人間が飢えに苦しんでいて、子どもも畑から野菜を抜いたり、うまいとされた赤犬を捕まえたりして空腹を紛らわせた時代。笑い顔が苦境を切り抜けるツールになると、体で学んだ結果だった。


長じるにつれ、周りに人の輪が絶えない青年に育った。家に鍵も掛けないような濃密な人間関係が支配する街では、それだけに諍いも多い。そうした揉め事のほとんどが喜一郎の元に持ち込まれ、恵比須顔で間に入ることで人脈がさらに拡大していった。消防団や青年団の中核メンバーとして、街の祭礼の一切を仕切っていたのも大きかった。


不惑をいくつか過ぎた頃に市議会議員に推されると、あれよあれよと言う間に議場の人となった。持ち前の人当たりの良さと人脈、交渉力が最大限に生きたと言ってよく、初当選にして議員22人中の最多得票を数えた。そのまま4期、トップ当選を果たし、人をして来期は議長確実と言わしめた。


そうした立場が足かせとなった。


洋子が後に生存者に聞いたところでは、喜一郎は大地震の後、壊れた酒瓶の始末など雑貨店の後片付けに追われていた。そうしたところ、店内の天井付近に設置してあったテレビが津波警報を伝えた。喜一郎はN市役所に事実確認を取った上で妻芳江に避難するよう言い含め、避難誘導に当たるため店近くの消防出張所に出掛けて行った。


N市沿岸部の津波到達時刻は地震の約50分後。喜一郎はその間、ずっと路上に立って内陸側に避難するよう声を張り上げていたという。


「何だが選挙ん時の演説みでに見えでな。緊急時には違いねんだげっど、キいっちゃん見だらスッと落ち着いだんだわ」


遺体は、丘のそばで見つかった。「丘さ登れば大丈夫と思って、自分は逃げなかったんだべな。キいっちゃんらすぃわ」。津波は丘ごと呑み込んだ。9メートル近い大波だったと聞いた。


洋子は遺体安置所で喜一郎の顔についた泥を拭き落としながら、最後に交わした会話を思い出していた。確か夫の隆と結婚して3年が経とうとしていた頃だったと思う。


「隆君、洋子は料理どが洗濯だが、やってるがい? こいづは小学校ぐれがらアイドルだ洋服だってばっかりで、そういう方面はからっきしだったから」などと言っては、洋子をからかってきた。


続けて、「あとは孫だなやあ。議会でも消防団でも同世代との会話は孫と病気のことばっかりでや。こいづは内緒だげんど、議長さなったら孫抱いで議長席さ座ってみでんだやあ」。随分と直截な物言いに隆も返事に窮し、芳江が喜一郎をたしなめたものだった。


あの時は余計なお世話だと憤慨し、隆の手を引いてすぐに帰宅してしまったが、今となっては後悔ばかりが先に立つ。「洋服のことばっかり」は今でもそうで、仕事が楽しいからと子作りを後回しにしてきたことが悔やまれた。


「日下さん」


物思いにふけっていると、安置所に詰めていた警察官が近づいてきた。思えば彼らも、商売とはいえ大変だ。発災から3日目になるが、おそらく一睡もしていないのだろう。顔が土気色に近かった。


「日下さん、お掛けする言葉もないんですが…」


体調の悪そうな彼の、心の底から気の毒そうな顔を見て、洋子は全てを察した。


しばらくして、芳江の遺体が担ぎ込まれた。


(続)

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