第5話 大友雑貨店跡~日下洋子のウエディングドレス

 かつて、そこに雑貨店が存在した。漁港に面した5000人ほどが暮らす街の「冷蔵庫」だった。


 野菜も肉も、日用品も扱う言わば何でも屋だったが、漁港が近いのに魚だけは置いていなかった。理由は、ほとんどの住民が何かしらの形で漁業に関わっているような土地柄にある。家を留守にして戻ると、食卓の上に生の魚が数匹載せてあって、「いっぺ手に入ったがら。 太田」なんて近所の人の置手紙がある集落だった。どこの家も鍵を掛ける習慣はなかった。


 酒にタバコ、切手に駄菓子だって扱っていたから、老若男女問わず、朝から晩まで誰かしらが入れ替わり立ち代わりやって来る場所。それが洋子の実家だった。


 今、泥だらけの洋子の前には、何もない。正確には実家の間取りがハッキリと分かる布基礎が残り、あとは実家のどこかしらの端材が少しと、横倒しになった自転車が1台あるのみ。会社を飛び出し、一昼夜もさまよってまで探したかった両親の姿はどこにも見当たらなかった。


 「大友雑貨店」。銀色の自転車の荷台脇には、父が昔、赤いペンキで書いた店名のプレートが残っていた。大友は洋子の旧姓だ。醤油や酒を配達する父の背にしがみつき、荷台で揺られた幼い時分が蘇る。セピア色に染まった記憶が、父親や母親への思慕をさらに募らせる。


 「何で自転車が残っていて、人間はいないのよ…」。泥だらけのプレートを見やり、独り言ちた。


 歩道橋の階段に折り重なっていた人たちは、そのままにしてきた。数えたわけではないが10人ほどいて、女手一つでどうこうできるものではないと思った。不謹慎には違いないが、他人よりも肉親の行方だ。非常時なのだと言い聞かせ、かつての家路を急いだ結果が自転車1台だった。



 しばらく、そのままたたずんでいたが、次第に日が陰ってきた。海のそばだけに風も強く、寒さが堪える。いったん夫の元に戻ろうかと考えた時、声が掛かった。


 「住民の方ですか? 再び津波が来る可能性があります。至急、避難所に戻ってください!」


 N市の消防団だった。沿岸部の地元分団員は行方不明者も多いので、内陸部の分団が肩代わりして捜索や救助に当たっているのだと言っていた。やはり大勢の人が亡くなったのだー。洋子は再び強い不安に襲われたが、「避難所」という言葉に一縷の望みをつなぎ、向かってみることにした。


 消防団の車に同乗して向かった避難所は人でごった返していた。洋子も通った小学校で、皆、床に直に座り、寝ている人もいた。トイレも大混雑していて、特に女子の方には長い列ができていた。「これだけ大勢の住民がいるなら」。少しは楽観的になれたが、一通り見て回っても両親の姿は見えない。ほかの住民同様、入り口に近いところの壁に張り紙をし、探している両親の名前と自分の携帯の番号、「心配しています。連絡ください」と書き置いた。


 しばらく待って、迎えに来てくれた夫の車に乗って自宅に戻った。電気やガス、水道こそ止まっていたものの、泥やがれきといった津波の痕跡すら見当たらないS市内を目にし、わずか15キロの間に天国と地獄の境目があると感じずにはいられなかった。


 夫によると、それでも食料や水を求める人たちがスーパーに群がっていたり、ガソリンスタンドに入りきれない車が車道脇にずらっと並んだりする光景が広がっていたという。勤務するアパレル系商社では被害こそなかったものの、幾人かの社員の親族が犠牲になり、休暇を取っていると聞かされた。


 「犠牲…」。昨日なら信じられなかった言葉も、何人もの遺体を目にした今は受け入れざるを得なかった。そして、どうか両親は無事でありますようにと願わずにはいられなかった。


 丸二日寝ていない状態で駆けずり回ったのと、自宅に戻れた安心感から、徐々に眠くなってきた。停電で暖房器具が使えず、布団にくるまっていたことも睡魔を強力にしたようだ。ウトウトし始めたところに、けたたましく携帯が鳴った。


 「日下洋子さんのお電話でしょうか。こちらはI警察署です。申し上げにくいのですが…」


 父が遺体で見つかった。


(続)

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