第4話 遺体との遭遇~日下洋子のウエディングドレス
自動車専用道の上での足止めは結局、一昼夜に及んだ。海水が引かないどころか津波が第2波、第3波と立て続けに押し寄せてきたからだ。県道との立体交差付近で難を逃れた20人ほどが、肩を寄せ合うようにして寒風をしのいだ。
弱り目に祟り目とはこのことか、雪まで降りだした。出掛けに寒いとは感じたが、まさか鉛色の空の下で路上に放り出されるとは考えもしない。会社の制服のほかは引っ掴んできた上着1枚だけ。洋子はほかの女性と背中を合わせ、震えながら一晩を明かした。背中から伝わる人のぬくもりがありがたかった。
翌日の昼近くになって、ようやく自動車道の下に降りることができた。さすがに逸る気持ちは収まっていたが、悪い予感は消えなかった。
「海まで3キロくらいあるここでさえ、2メートル近く水が来た…」
海沿いの実家は雑貨店だ。地震で落ちた商品の後片付けでもしていただろうかと想像すると、薄ら寒くなった。
近くに乗り捨てたルポはもう、どこに流されたのかも分からなくなっていた。たとえ見つかったとしても、完全に水没しただろうから、もう動かせるはずもない。こんな形で愛車と分かれるとは思わなかったが、洋子は意を決し、雑貨店を目指して歩き始めた。
残った海水や泥に足を取られた上、流されてきたがれきや車、樹木などが至る所に散乱していたこともあって、歩みは遅々として進まなかった。スタンスミスはもはや、つま先どころか全体が真っ黒だ。靴の中まで泥が入り込み、愛用品への気遣いは早々にやめた。
半分ほど進んだところで、最も恐れていたことが現実となった。路上に、倒れている人がいたのだ。
以前、大型スーパーで胸を押さえて昏倒したおじいさんを見たことがある。だが、その時と違って明らかに姿勢がおかしい。県道脇の歩道に、ふくらはぎを上にして脚をだらんと投げだし、上半身は歩道沿いの側溝に垂れ下がっている。何より、先ほどからピクリとも動かない。
死んでいる―。そう考えた瞬間、心臓が二つにでもなったかのように脈打ち、胸苦しくなった。
昨日からずっと考えないようにしていた。
見知った土地が濁流に呑まれ、家が、車が、大きな木々が流され、海水が渦を巻いている様子を見ても、人の死と結び付けなかった。結び付けたくなかった。人が死ぬことを認めれば、海沿いにいたはずの両親は孫の顔を見られないことになってしまう。
「大丈夫。倒れた醤油瓶を元の位置に戻しながら、お父さんが『母さん、この瓶も割れてら。大損だなやあ』とか、こぼしているに決まっている」
嫌な考えを振り払うように、自らにそう言い聞かせて前進を続けた。海に近づくにつれ、泥とがれきで歩きづらさが増す。泥から脚を引き抜くたび、スタンスミスが脱げる。履く、脱げるを繰り返しながら、実家のある地区へと渡る歩道橋までたどり着き、一気に駆け上った。
声を失った。
歩道橋の上から見えるはずの景色が、ない。建ち並んでいた家。かまぼこ工場。神社。すべて消えてしまっていた。洋子の実家がある辺りも、建造物の基礎だけを残した無人の泥地が広がっていた。
ふらふらと歩道橋の上を歩き、降りる階段を見て、今度は悲鳴を上げた。
大勢の人が積み重なって、うつぶせに倒れていた。逃げようとして階段を上ったところに津波が押し寄せたのか。津波で流されてきて、階段でせき止められたのか。分かるのは誰一人、動く者がいないということだけだった。
(続)
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