第3話 黒い布~日下洋子のウエディングドレス
勢い込んで飛び出したはいいものの、S市を南北に貫く大動脈、国道4号に出るまでが大変だった。考えることは皆、同じようで、会社の前の市道は国道へ入ろうとする車で常にないほどの大混雑だった。
10分、いや20分だろうか。ジリジリとする気持ちを抑えながら、愛車ルポのステアリングをたたく。タマ数の少なさと飾り気のない外装がたまらなくて「則買い」したお気に入りのコンパクトカーだったが、この時ばかりは背の低さが災いした。前が見えない。間の悪いことに、一つ前はキャンプ好きの男性らに人気のワンボックスカーだ。ほとんど空気を運ぶだけだろうに、何て邪魔な箱だろう。洋子は八つ当たりにも似た気持ちで毒づいた。
国道に入ってからは比較的スムーズだったが、25分ほど南下して実家のあるN市内まで来ると、途端に渋滞が再発した。向きは洋子と逆。海手から大量の車が押し寄せ、われ先に前へ進もうと躍起になっていた。クラクションの音もけたたましい。そんな長蛇の車列を横目に海へ向かう県道に入ると、反対車線のドライバーが窓を下げて大きく口を開けていた。
「…かえせ!」「…ちゃだめだ!」「…どれ!」
窓を開け、ようやく意味を呑み込む。海から津波が押し寄せているから引き返せ、という忠告のようだった。
県道は国道からN市の沿岸部へと直結している。津波が来るとすれば、波よけとなる住宅地よりも、摩擦の少ないこの道沿いを遡上してくるということか―。
ほんの一瞬、躊躇したが、実家はその沿岸部にある。窓を上げて頭を下げ、県道を東へと―、海へと向かった。ルポと同じ方向に走る車は皆無だったが、渋滞にはまって焦燥感が募った直後だったこともあり、恐怖感よりも前進できることによる高揚感が勝った。
その直後だった。自動車専用道路の高架をくぐり、地元のランドマークとなっている精麦会社の大型タンクが見えてきた辺りで黒いモノが目に入った。
後に「海から壁が迫ってくるようだった」という表現を耳にしたが、洋子には最初、壁というより巨大な布に見えた。真っ黒なビロードの布が徐々に見慣れた街を覆っていき、次第にこちらへと近づいてくる感じだ。布が、まるで意思を持ったかのように家々を、木々を、街を呑み込んでいった。
怖くなってルポをUターンさせようとしたが、反対車線はここでも渋滞していた。慌てるだけで何も思いつかずにいると、バックミラーを見た反対車線のドライバーたちが車を降り、ルポのドアも開けて洋子を引きずりだした。窓をノックして声を掛けたが、前を凝視しているだけだったから、と言われた。
「危ねど、おめ!中さいだら死んですまうど!高速の上さ走れ!」
大声に促されて我に返ると、必死になって駆けた。自動車道の高架までは200メートルほどか。オシャレに気遣うだけの10代を過ごし、部活など運動らしい運動はしてこなかったが、自分でも驚くほどの速さで手脚を動かすことができた。高架の橋脚の擁壁は2メートル近くもあって上れなかったが、先に上がった男性たちが引っ張り上げてくれた。
「ゴッパァン!」
洋子が擁壁の上に脚を引きずり上げるのとほぼ同時に、真っ黒な布が、いや、布に見えた汚泥混じりの海水が、擁壁に当たって凄まじい音を立てた。
道路上まで這い上がって路面に手をつき、荒い息を整える。顔をもたげると自動車道の周りは一面、布に覆われて真っ黒に染まり、橋脚の周囲では海水が渦を巻いて流れていた。渦の中では海手から運ばれてきた車や樹木などがクルクルと回っていた。
ふと足元に目をやると、愛用のスタンスミスのつま先が黒く染まっていた。
(続)
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