第2話 届かぬメール~日下洋子のウエディングドレス
父親とは3日後に対面できた。正確に言えば父親の遺体と、だが。
こういう時、「亡くなったとは思えないほどきれいなお顔で」なんて言葉を耳にしたことがあるが、洋子は、それが平時だからこそ言える決まり文句なのだと身をもって知った。仮設の遺体安置所となったN市の体育館に運び込まれた父親の遺体は、それにはほど遠い状態だった。
顔はもちろん、首筋や手に無数の、そして深い切り傷がある。津波が呑み込んだ膨大な量の木―材木というよりは押しつぶされた家屋のがれきやなぎ倒された樹木の枝だ―が地表を洗い流すうち、一緒に流れていった父親を切り裂いた。その証に、衣服をまとっていた体や腕、脚には傷らしい傷はほとんど見当たらなかった。
津波が巻き上げた海底の土なのだろう、鼻の穴や口の中には黒い泥が詰まっていたという。さすがに、それらは安置所に詰める警察官たちが取り除いてくれたそうだが、当然、取り切れなかった泥がそこかしこにこびりついていた。
「お父さん…」
それ以上、言葉にならなかった。次から次へと涙があふれてきて、父親の顔をぬらす。泣きじゃくりながら、涙とハンカチで懸命に泥を落とし続けた。断水が続き、商業施設も閉まっている今、水は貴重品だった。
大津波を引き起こした大地震に襲われた時、洋子はN市に隣接するS市の勤め先にいた。2歳にもならない時分、やはりとてつもなく大きな地震に遭遇したことがあると両親に聞いたことがあるが、もちろん覚えてはいない。記憶にある限りで最大の揺れだった。
動悸が収まらない胸に時折、片手を当てつつ、放心状態で書棚や机の上から落ちた備品を片付けていると、上司が眺めていたテレビの画面に速報が流れた。津波警報だ。S市を含め、沿岸部に数メートル規模が押し寄せる可能性があるという。
胸に当てた手を軽く握り締めながらも、次第に冷静さを取り戻しつつある頭が海から社屋までの距離を計算する。15キロというところか。社屋は小高い場所にあるし、自宅もマンションだ。まず、大丈夫だろう。車で営業に出ていた同僚である夫からも、無事を知らせるメールが先ほどあった。
メールを打ち返しながら、ふと実家のことが頭をかすめた。あそこは海から数十メートルしかない。
本当に何メートルもの高さの津波が来たら―。
幼い頃から慣れ親しんだ、あのキラキラした海が牙をむくことなど想像できなかったし、2歳の時に起きたというブロック塀が倒れるほどの大地震でも津波は来なかった。経験則を基に大丈夫だと自らに言い聞かせるが、不安は膨れあがるばかり。携帯を持つ手が、じっとりと汗をかいていくのが分かった。
「お母さん、大丈夫?」
母親のメールに短く送信した。数分待ったものの返信はない。背中や脇の下にも嫌な汗が流れだすのが感じられた。即座に父親の携帯を鳴らしたが、電話会社が不通を伝えるだけで、つながらない。自宅の電話も同様だった。
「巨大な黒い波が水田を覆っていきます。ここはS市の沿岸部です」
手の汗を髪の毛や制服で拭いながらメールを打ち続けていた時、テレビ局が津波に呑み込まれる水田地帯を映し出した。社内のあちこちでどよめきと悲鳴が上がる。車で何度となく脇を通ったことがある景色。あそこから10分ほど南に下れば洋子の実家がある。
「ちょっと実家を見てきます」
ロッカーから上着をひったくるように取り出すと、そう早口で上司にまくし立て、車で飛び出した。今にも雪が降り出しそうな寒い午後だった。
(続)
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