あの日を境に
走乍考多(そうさ こうた)
第1話 山の上の家~日下洋子のウエディングドレス
日下洋子の自宅は東北地方のN市の山の上にある。文字通り、標高210メートルの里山の上に建っている、木造2階の一般的な住宅だ。
ご近所の造りも似たり寄ったり。判を押したように木造2階建てで、車が2台置ける駐車場と、ささやかな庭がある。N市のお隣、100万都市のS市の土地価格高騰のあおりを受け、デベロッパーがN市との境にある里山を開発し、無理やり切り開いた団地だ。
N市であってN市ではない、さりとてS市でもない微妙な位置付けの団地だが、土地の取得単価はS市の5分の1。一戸建てへの憧れと、特に親からの相続が期待できない次男、三男らの若年層が多く飛び付いた。
デベロッパーが整えた道路や公園、遊歩道があり、開発から日が浅いために新しい家が多いこともあって、小ぎれいな街に見える。とはいえ、ここが山の上には違いない。かなりの急勾配の道を上ってこなければならず、徒歩では団地の入り口まででさえ50分ほど掛かる。自転車ならば多少の時間短縮が見込めるが、勾配のきつさを考えれば、サドルにまたがることさえ尻込みするほどだ。ありていに言えば、車がなければ孤立してしまう人造の街だった。
「そうは言っても、この世から車がなくなるなんてことはないだろう」。価格の安さに飛び付いた買い手が、その若さの勢いも手伝って、そのように考えた数年後、認知症などを背景とした高齢ドライバーの事故が社会問題化。「安物買いの銭失い」とはこのことかと、心の隅に後悔の澱をため込む住民も顕在化しつつあった。
洋子はそうした住民たちとは一線を画していた。確かに低廉な土地価格は魅力的ではあったが、一番の決め手は団地の標高だった。それが高ければ高いほど、家屋に対する洋子の安心感は高まった。生まれ育ったN市で、この団地以上に空に近い場所はなく、バスの本数が少ないことや山の上にスーパーがないことなど、デベロッパーが口にする重要事項説明もそこそこに、夫を肘で突いて契約書に判を付かせた。
洋子は1977年、N市の沿岸部に生まれた。生家は小さな雑貨店を営んでいた。面倒見の良さから相談事を持ち込まれることが多い店主の父親と、店番をしながらご近所さんに洋裁を手ほどきする陽気な母親の間に生を受けた。少女時代は海中を泳ぐ魚を見るのが大好きで、学校から帰るとランドセルを放り投げ、店からほど近い漁港の岸壁に駆けて行ってはキラリと光る銀鱗を飽くこともなく眺めた。
思春期を迎えると磯の臭いが気になるようになり、漁港から遠ざかる代わりにその世代の女の子らしく流行を追い求めるようになる。当時、一世を風靡したアイドルグループにのめり込んだり、ティーン雑誌の特集を熟読しては洒落た装いに見えるよう努めたりした。
就職も「オシャレ路線」の延長線上で決めた。特段やりたい仕事がある訳でもなし、安く洋服が買えるかもしれないという邪な気持ちから高校卒業と同時に18歳でアパレル系の商社に潜り込み、磯の臭いがする生家を離れてS市内で1人暮らしを始めた。
それから15年。要領はいい方だったので仕事は早くに覚え、社内で夫と出会って結婚もしたが、2人に増えた分だけ広いマンションに越しただけで、S市に住み続けた。生家には盆暮れに顔を見せに買えるくらいで、いつしか磯の臭いも忘れてしまった。
そんな折り、あの大津波が押し寄せた。実家は基礎部分だけを残して全て流失。父母とも連絡が付かなくなった。
(続)
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