17 橘

「……追い出されたか」


 気づくと、『真夜中の祠』の境内に戻っていた。


「橘さん、大丈夫?」


 そんな橘を、隣りにしゃがみこんだ樹が心配そうに見つめている。


「もしかして神さまに呼ばれてた?」

「そうだよ。よく分かったね」

「前にも同じように、急にぼうっとして動かなくなった人がいたんだ。その人もやっぱり神さまに呼ばれてたから」

「その人って、女性?」

「うん」

「やっぱりそうか。たぶんその女性は俺の妻だ」

「ホント⁉」


 橘がそう告げると、樹は露骨に非難の目を向けてきた。


「なにか言いたそうだね」

「あのおねえさん、旦那さんのことで悩んでたみたいなんだけど……」

「違う違う。それは俺じゃない。彼女は君と会った後に離婚したんだ。俺は再婚相手だ」

「ああ、そういうこと。よかった。――奥さん、元気?」

「今はちょっと元気じゃないな。体調が良くなったら会ってやってくれないか? ずっと君に会いたがってたんだ」

「いいけど……。どっか悪いの?」

「いや、つわりだよ」

「良かった。赤ちゃんかぁ。――あれ? そういえばあの時も妊娠してるって言ってたよね」

「ああ。産まれたのは女の子だ。百花っていうんだが……っと、娘の話をしてる場合じゃなかったな」


 妻子の話になるとついつい長くなってしまう自覚のある橘は、とりあえず自重して足元に転がっている男に視線を向けた。


(こいつが、真奈と美奈を……)


 失ったかつての妻子の憎い仇。

 この男が犯した他の事件はともかくとして、妻子の事件に関してこの男が罪に問われることはないだろう。

 それを思うと、衝動的に激しい怒りがこみ上げてきて、自らの手で罰を与えたくなる。

 そして、橘は気づかされた。


(そうか、そういうことか)


 神が自分を呼んだのは、だったのだと……。

 衝動的な殺意で我を忘れ人生を無駄にしないよう、橘の帰りを待ってくれている妻子を悲しませることのないように、わざわざ神は橘に善く生きよと教え諭したのだ。


(真奈と美奈の仇はすでに神が取ってくれた)


 だから、もういい。子供の目の前で酷い真似をする必要はない。

 橘は軽く首を振って怒りを振り払い、佐野を見下ろした。


「まずは、こいつを外に出さないとな」


 勤務時間外だから手錠は持っていない。万が一目を覚ました時に、樹に襲いかかられても困る。橘はネクタイを外して佐野の手首を拘束してから、その身体を担ぎ上げた。


「よし、行こうか」

「うん!」


 ふたりで参道を進み鳥居をくぐる。


「樹っ‼」

「うわっ、お母さん」


 歩道に出てすぐ、樹は母親の桐子に抱き締められ、怒られた。


「もう、真夜中になにやってるの! 心配するでしょ!」

「ご、ごめんなさい」


 橘が担いでいるのが佐野だと察して、桐子は顔色を変える。


「怪我はない? 怖いことされなかった?」

「大丈夫だよ。ちょっと首を絞められたけど、『真夜中の祠』の神さまが守ってくれたんだ」

「首を?」

「うん。ぎゅって僕の首を絞めた途端、急に倒れちゃったんだ」

「そのようです。私が中に入った時には、もう倒れてましたから」


 橘が佐野を歩道に下ろしてから説明すると、「神さますごいな」と高木が妙に嬉しそうにはしゃいでいる。


「首が少し赤くなっているようなので、後で医者に連れて行ってやってください」

「わかりました。――事情は桜居さんからお伺いしました。この子のこと、気にかけてくださってたんですね。本当にありがとうございます」


 少し落ち着いたのだろう、樹の頭をぐりぐり撫でながら桐子は、橘たちに頭を下げた。

 樹もつられたようにペコッと頭を下げている。


「いえ。――こちらこそ、お礼を言わせてください。あなたがくれたリストのお陰で、佐野の罪を明らかにすることができそうです」

「いいえ、そんな……。私に勇気があったら、もっと早くにこの人を止められたかもしれません。それを思うと……」

「過ぎたことを言うのはやめましょう。樹君は無事だったし、佐野も捕まって、あなたたちを悩ませる者はいなくなる。今はただそのことを喜びましょう」

「そうですね。――ああ、そうだ。ここで待っている間に、神さまから話しかけられたんです」


 ――今までよく耐えた。そなたら親子に長く絡みついていた悪縁はようやっと断ち切れた。


 そう言われたと、桐子が言う。


「お母さん、神さまの声を聞いたの? いいなぁ」

「神さまはね、樹のこともおっしゃってたわよ」

「なんて?」

「案内人は今日で終わりだって。よく働いたって誉めてらしたわ」

「えー、一度も会ったことないのにー。声も聞けてないのに、もうおしまいなの⁉」

「当たり前でしょ。こんな真夜中に一人で出歩いて! お母さん、言ったよね? 暗くなったら一人で家を出るなって」

「……言ったけど……でも……」

「でも、なに?」


 教育的指導をはじめてしまった桐子に、樹はたじたじだ。


(今日で終わりって事は、樹くんは佐野を釣るエサだったわけか)


 佐野を見事釣り上げたことで、樹はお役後免になったのだろう。

 佐野を排除しない限りこの親子に平穏は訪れなかっただろうから、それも仕方のないことか。

 橘が苦笑していると、「お疲れさまです」と桜居と高木に声をかけられた。


「ああ。君らも桐子さんへの説明ありがとう」

「どういたしまして」

「中はどんな感じでした?」


 興味津々の高木に聞かれて、橘は苦笑する。


「孝志くんに聞かされてた通りだったよ。――中で少し神と話もしてきた」

「どんな話を?」

「……その話は、時間がある時にゆっくりな」


 立ち話でできるような話じゃない。

 橘は、なにげなく振り返って鳥居を見上げようとして、唖然とした。


「聞いてはいたが、なんというか……」


 ビルとビルの間はぴったりとくっついていて、さっきまで確かにあったはずの鳥居が綺麗さっぱり消えている。

 

「俺達もびっくりしましたよ。橘さんが急に消えたり出たりするんですもん」

「消えた? そういう風に見えたのか」

「ええ。ふっと消えました。出てくる時もいきなりでしたね」

「これも神隠しって言うんですかね?」

「どうだろうな。……しかし、困ったな」

「どうかしましたか?」

「いや、佐野をと思ってね。まさか、『真夜中の祠』の中で倒れていたとは言えないだろう」


 そんなことを言ったら、間違いなく正気を疑われる。


(とりあえず、皆で口裏を合わせるしかないか……。近くに都合の良い公園があるといいんだが……)


 同僚に佐野確保の連絡をする前に、桜居達に相談しつつ、警察に説明するためのストーリーを作り上げる。

 そうこうしているうちに、橘は徐々に腹が立ってきた。


(美味しいところだけ喰らって、後始末はこっちに丸投げか)


 助けてもらったことに感謝はしているが、それとこれとは別だ。


(もうちょっと気を遣え)


 橘は、今はもう見えない鳥居があったあたりを睨みつける。


 ――そう怒るな。縁結びの礼代わりに働くがいい。


 頭の中で性別不詳の声が響く。

 その声がやけに楽しげで、やっぱり腹が立った。

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