16 橘
橘は長い夢を見ていた。
死んだ元妻、真奈の夢だ。
そして目覚めると、そこは空も大地もない真っ暗な空間。
(ここは、『真夜中の祠』の神の領域か?)
――然り。
橘の思考を読んでいたのだろう。
妻の麻美に聞いていた通りの、性別不詳の低い声が空間を響かせた。
(ひとりの声じゃない)
その声の響きを聞いた瞬間、なぜかそう感じた。
老若男女、全ての声が合わさり響き合っているのだと……。
――そなたは死者と向き合う生業故、我によく馴染むようだな。
(死者に……)
――我は戦場にて産まれた。
ゆらりと、周囲の暗闇が揺らぎ、橘の脳裏に古の戦場の光景が映し出された。
血と泥にまみれ、死に満ちた絶望的な戦場。
死にたくないとあがく雑兵、成り上がろうと殺し続ける戦人、戦に巻きこまれて命を散らす民草。
絶望、愉悦、執念、怨嗟、羨望、安堵……死にゆく者達のありとあらゆる感情が凝って生じた存在。
(……鬼)
――そうとも言うな。
空間を揺るがす爆音のような笑い声が響く。
同時に揺らぐ空間から伝わってくるのは神の記憶。
無残に死した人々の魂を喰らい続ける鬼。
輪廻に向かう魂を守る為、鬼を封じる大神。
封じられ、祭られることで、鬼は神となった。
――無残に死した魂の怨嗟が地に満ちれば、災いや疫病を呼び醒ます。悪しき魂を喰らうは浄化よ。善き魂をも喰らったせいで大神に目をつけられてしまったがな。
(真奈の魂も喰らったのか?)
――否。あの女は愚かだったが愛情深くもあった。我は大神との約定で、もはや善き魂を喰らうことはできぬ。罪のみを喰ろうて輪廻へと送り出してやったわ。
(……そうか)
夢の中、真奈は幸せな夢を見ながら命尽きた。
安らかな気持ちのまま旅立てたことはせめてもの救いだ。
そして真奈の死の謎が全て明らかになった今、橘は悔しさに歯噛みしていた。
あの状況では、佐野を罪に問うことが難しいからだ。
あの夜、佐野はただ真奈に声をかけて、その行いを批判しただけ。真奈が過剰に佐野を恐れたのは『真夜中の祠』の夢の中で殺された経験のせいで、直接なにか害意を向けられたわけではない。
客観的に見れば、常々娘に対する自らの行いに罪悪感を感じていた母親が、主治医の批判から勝手に逃げ出して、勝手に階段を転げ落ちたということになってしまう。
かと言って『真夜中の祠』の夢で佐野の危険性を知っていなければ、あの後きっと佐野の手にかかって殺されていたはずだ。
(だがその場合、きっと美奈は死なずに済んだ)
佐野の被害者は母親だけ。こども達はみんな無事だ。
真奈が『真夜中の祠』に係わっていなければ、娘だけは助かっていたかもしれない。
もはや手遅れだとわかっていても、その可能性に胸が痛む。
――否。娘にも死相は出ていた。それ故、そなたを係わらせようとしたのだ。
(そうか。ひとつ目の夢はその誘導だったのか)
ひとつ目の夢の中、橘は妻子を守る者として配置されていた。
だが真奈は、橘から生きがいを奪えないとそれを拒んだ。
(結局、俺のせいだ)
家庭より仕事を優先していた。
真奈は、そんな自分に遠慮して自分の病気を打ち明けることができなかったのだろう。
(麻美は大丈夫だろうか)
過去に囚われ鬱々と生きていた自分を救ってくれた人。
彼女のために、もう一度人生を見直すべきなのかもしれない。
――やめよ。愚かな。自ら不幸に陥ってはならぬ。
真奈の虚勢を無駄にするなと、周囲の暗闇がざわりと揺らいで橘に訴えてくる。死の間際、真奈が夢見ていた未来が、橘への愛情が、心に直接伝わってくる。
――我はあの女の最後の思いをそなたに伝えるためにここに誘った。そなたの胸に巣くう慚愧の念が、新たな不幸を呼ばぬように……。
(最後の思い?)
――善く生き、幸福になると……。残された者は思いを継がねばならぬ。その為に、あの女との縁を繋ぎもした。
(麻美と……)
麻美は『真夜中の祠』で見させられた夢の中で、自分達が何十年も添い遂げた夫婦だったと言っていた。
ふたりの接点は『真夜中の祠』の夢だけ。
――むろん、この縁を自ら選択したのはあの女だ。よもや、いらぬなどとは言わぬだろうな。
(ああ、言えないな)
自分達を生きる意味にしてくれと、冴えない中年男の元に押しかけてきてくれた妻子。自らの愚かさ故に失ったかつての妻子への後悔に飲まれて、彼女たちを不幸にするわけにはいかない。
そして彼女たちの幸せは、もはや橘の幸せでもある。
どうやら橘は、『真夜中の祠』の神の企みにしてやられたようだった。
(佐野はどうなる? ……やはり喰らうのか?)
――大神との約定によりそれは叶わぬ。
(あれが善き魂の持ち主だというのか?)
佐野のせいで死んだ妻子のことを思い、怒りがこみ上げる。
落ち着けというかのように、周囲の暗闇が揺らいだ。
――あれは、いまだ子のままよ。
その本質は、善悪の区別なく我を通そうとする哀れな子供。そしてそこに大人の狡猾さが加わることで、幾多の犯罪行為を繰り返してきた。
――故に我は、その罪のみを喰らう。
性根まで腐った女を喰らうのは簡単だったと神が言う。丸呑みにすれば済むからと。
だが、罪のみを喰らう、その取捨選択には手間がかかる。
真奈達のように直接この場を訪れ、『真夜中の祠』の神と縁を繋げていれば離れていても罪を喰らうことはできるが、佐野は違う。それ故、わざわざ佐野をこの場に誘い入れたのだ。
(そして佐野は、のうのうと生き延びるのか……)
――否。あの者の罪はすでに魂まで侵蝕している。罪を喰らった今、もう長くは保たぬ。
生命力そのものが枯渇し徐々に衰弱して滅ぶだろうと神が言う。
その前に、事情聴取とやらを済ませるようにと……。
――我も喰らわねば力を失ってしまうのでな。なかなかによい獲物であった。
(なるほど。ここはあなたの狩り場だったのか)
その為に人々を招き入れ、獲物を物色しているのか。
橘がそう指摘すると、爆音のような笑い声が響いた。
――否。我は苦しむ者どもを幸せにする為に招いておるよ。大神との約定なのだ。我が無為に喰らってきた善き魂の数だけ、人々に幸せな人生を与えることができれば、ここから解放すると……。だが、それがなかなかに難しい。
ゆらりと周囲の暗闇が揺らぎ、神の苦労を直接脳裏に伝えてくる。
望みをただ叶えてやっただけでは、人は幸せにはならない。満足するのは一時だけで、すぐに次の望みを願い出す。
なんと強欲な生き物か。
幾たびもの失敗を繰り返し、神は学んだ。
人は与えられた幸せを軽んじる。自らつかみ取った幸せにこそ価値を見いだし、幸せを維持する為に善く生きようとするのだと……。
――故に我は道をふたつ示す。
自ら道を選び、幸せを掴み取るべく人々に努力させる為に。
勝ち取った幸せに価値を与える為に……。
(それだって、結局は神自身が解放されるためだ。そういう意味では、やっぱりここは狩り場じゃないか)
心を読む相手に隠し事はできない。
思わず悪態をついた橘の心を読み取った神は、またしても爆音のような笑い声を響かせる。
やがて周囲を満たす暗闇までもが笑い出し、揺らぎ、さざめき、その場に漂う橘を翻弄する。
(くっ……。笑って誤魔化す気か)
神は答えない。
そして橘は、ばっさり意識を刈り取られた。
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