15 真奈

 真奈は病院通いを止めた。

 本人は『真夜中の祠』で見た夢のお陰だと思っている。代理ミュンヒハウゼン症候群と自覚して、その治療過程を思い出したから精神状態が落ち着いたのだろうと。

 だが事実は少し違った。

 真奈は自分を殺したあの医師が怖かったのだ。よくよく思い返してみるに、ひとつ目の夢で自分の背中を押した男の声もあの医師のものにとても良く似ていた。なぜかはわからないが、命を狙われているのかもしれない。それを思うと、もう怖くてあの病院には行きたくなくなってしまっていたのだ。

 そのお陰で、しばらくは落ち着いた日々が続いた。


「ママ、だっこ」


 小さな娘が真奈に手を伸ばす。真奈は微笑んで娘を抱き上げた。

 病院通いをしていた頃はいつもどこかぼんやりしていた子だったが、最近はしっかりと真奈を見て笑ってくれるようになった。

 可愛い、大切な娘。もう二度と傷つけたりしない。そう思っていたのに、近所を散歩中に小さなクリニックを見つけてしまった。

 ここにはあの恐ろしい医師はいない。そう思ってしまった途端、またあの恐ろしい衝動が襲ってきた。


 ――駄目、駄目よ。みーちゃんを傷つけちゃ駄目!


 心の中から自分を止める声がする。


(わかってる。絶対にもう傷つけたりしない)


 安心しきって腕の中で笑っている娘。この笑顔をもう二度と壊したりしない。

 狂おしいほどの衝動に真奈は必死で堪えた。

 そんな時、病院から電話がかかってきた。病院通いをするうちに親しくなっていたあの医師のサポートをしている看護師だった。


『みーちゃん、体調はどうですか?』

「最近はもうすっかりいいんですよ」

『それは良かったです。安心しました。もしも他の病院に通うようなことがあったら、こちらにも教えてくださいね。みーちゃんのカルテが必要になることもあるでしょうから』


 主治医も心配していましたよと看護師が言う。


(普通だったら、こんな風に電話なんてかけてこない……)


 真奈が代理ミュンヒハウゼン症候群だと疑っているからこそ、心配して連絡を取ってくれたのかもしれない。

 だが、もしかしたら夢の中で自分を殺したあの医師が、真奈の動向を探る為に看護師に命じて電話をかけさせた可能性だってある。


(……怖い)


 もうあの病院に行かなければ、あの医師に頷かなければ、命の危険はないものだと思っていた。

 だが、向こうから強引に係わってこようとしたら、こちらには避ける手段がない。


 ――ひとりじゃ太刀打ちできっこない。和夫に相談すべきよ。


 心の中から声がする。

 真奈はその声に頷かなかった。


(駄目。和夫に仕事を辞めさせるわけにはいかないもの)


 だからひとりでこの不安に耐えようと思った。

 でも駄目だった。

 不安で怖くてたまらない。耐えられなくなった真奈は、また娘をそのはけ口にしようとした。


(傷つけたりしない。……ただ、ちょっとうっかりしただけ……)


 夫が不在の真夜中、眠っている娘を薄着のままで抱っこして外に連れだした。この状態で三十分ぐらい散歩したら、もしかしたら娘は風邪を引くかもしれない。そうなったら、また病院に連れて行こう。あの近所の小さなクリニックに……。


 ――駄目よ。またやったら、今度はもう戻れなくなるわ。

(平気よ。……それに風邪なんて引かないかもしれないし)


 抱っこしている娘はとても温かかった。これなら風邪を引かずにすむかもしれない。そうなればいい。


 ――今回大丈夫だったとしても、それで終わりにできるの? また耐えられなくなってやってしまうんじゃないの?

(……それは、そうかもしれないけど……。でも、しょうがないじゃない!)


 どうしても我慢できないのだ。

 こうでもしなければ、このどうにもならない不安と恐怖に耐えきれない。


 ――そうやって何度も繰り返すつもりなの?

(……そんなつもりじゃ……)

 ――じゃあ、どういうつもり? このままじゃ、いつか取り返しのつかないことになるわよ。


 真奈の心に、娘の死に顔のイメージが浮かんだ。


(や、止めてよ! そんなこと起きるわけないじゃない)


 だって、この子はこんなに温かい。小さくともしっかり鼓動が脈打ってる。だから、きっと大丈夫。

 真奈は自分にそう言いきかせた。


 ――そうか。そなたは繰り返し続けるのだな。


 心の中の声が、以前『真夜中の祠』で聞いた性別不詳の低い声に変わった。


 ――ならば、己が選んだ道をそのまま進むがいい。愚かな女よ。


 とても悲しげな声だった。


(どういうこと?)


 真奈は急に不安になって、娘を抱く腕に力を込めた。

 それでも足は止まらずに前へ前へと歩き続ける。


(あれは『真夜中の祠』の神さまの声だった。それなら、もしかしたら私は、まだ夢の中にいるの?)


 あの老人はふたつの夢を見ることができると言っていた。だが、もしかしたらそれは聞き間違えで三つだったのだろうか?


(もしもまた、あの時からやり直せるとしたら……)


 結局、真奈はまた愚かな真似を繰り返している。

 今度こそ間違えない道を選びたい。

 必死に考えながら歩き続けていると、ふと背後から近づいてくる足音に気づいた。

 振り返ると、そこには黒いニット帽を目深に被った男の姿。


「娘さん、ずいぶんと薄着ですね。あなたはやはり母親失格のようです」

「ひっ」


 声で、あの医師だとわかった。

 真奈は必死で逃げようとしたが、男の足に叶うわけがない。

 捕まえられそうになって、とっさに方向転換して近くの歩道橋を駆け上がる。


(……ああ、失敗した)


 階段は駄目だ。ふたつ目の夢を思い出し、ぞっとしたがもう後戻りはできなかった。

 捕まれば、間違いなくあの夢のように殺される。逃げ続けるしかない。

 階段を駆け上がり歩道橋を駆け抜け、また階段を駆け下りる――途中で足がもつれて身体が宙に浮いた。


(この子だけはっ!)


 娘を自分の身体で守るようにして、真奈は狭い階段を下まで転げ落ちた。

 転げ落ちる身体が止まった時、奇跡的に意識はあった。


(……ああ、大丈夫。生きてる)


 首元に、娘の温かな息を感じて、真奈は心からほっとした。


(私、また死ぬのね。……でもこれが『真夜中の祠』の夢なら、また目覚められる)


 そうしたら、今度こそ間違わない。

 夫に全て打ちあけて、そしてこう言うのだ。

 お願いだから刑事は辞めないで、と……。

 夫が刑事を続ければ、ひとつ目の夢の時ほどのサポートは受けられないだろう。

 でも大丈夫。きっと乗り越えていける。

 そして家族三人で、ずっと幸せに暮らすのだ。

 今度こそ、最愛の夫と娘と共に……。


(ずっと……しあわせに……)


 死の間際、真奈は幸せな夢を見ていた。

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