11 橘
佐野の養い親の家で聞いた話は酷いものだった。
虐待する両親から佐野が保護されて二年、健康を取り戻し親戚の家での暮らしにも馴染んだ頃、また一緒に暮らそうと母親が接触してきたのだそうだ。
だが、残念ながらそれは嘘だった。
虐待事件のせいで職をなくした両親は、逆恨みしてその落とし前を子供の佐野につけさせようとしていたのだ。呼び出されていったマンションで幼い佐野を待っていたのは、色欲に満ちた大人達と大量の撮影機材だった。
幸いなことに佐野を引き取った親戚が聡い人で、両親がなにか企んでいる事に気づいていた。そのおかげで、佐野は被害を受ける寸前で保護された。佐野の将来を考えて警察沙汰にはしなかったのだそうだ。
佐野は精神的なショックを受け、外の世界を怖がるようになり一時的に引きこもった。
佐野が部屋に閉じこもっていた一ヶ月の間に母親は事故死する。アパートの外階段で足を踏み外し頭を打ったのだ。
父親のほうは同時期に行方不明になっていた。どうやら借金が嵩んだことで、誘拐同然にいわゆるタコ部屋での強制労働へと連れ出されたらしい。その後音沙汰はないらしく、生きているかどうかも怪しいものだ。
「この母親の件、怪しいですね」
「そうだな。これで事故死に味を占めたのかもしれない」
ずっとこの捜査に対して懐疑的だった岩谷が、佐野の疑惑に対して肯定的な発言をするのを聞いて、橘はもう潮時だと感じた。
そして上司に捜査結果を報告した結果、橘は佐野の捜査から外された。
同僚の中に佐野の死んだ妻の名前を覚えていた者がいたのだ。
これ幸いと同僚達から署内の書類仕事を押しつけられ、それからはデスクワークの日々が続く。家に早く帰れるのは嬉しいが、書類仕事は苦手だし捜査状況が気になるしでさすがに鬱々とした気分になる。
そんな橘を見かねたのか、妻に「たまには飲みにでも行って気晴らししてきたら」と勧められた。
「いや、家の事を手伝うよ」
いまだつわりが治まらず大変そうな妻を置いて、ひとりで飲みになど行けるわけがないと断ったのだが。
「飲みに行けるのなんて今のうちだけよ。子供が産まれたら寝る暇も無いほどたっぷり手伝ってもらいますからね」
妻に背中を押されて飲みに行った先は、いつもの桜居が働く居酒屋だった。
いつものようにカウンター席に座っていた高木に妻から言われたことを話すと、「それなら、ここが終わった後で一緒に飲みにいきましょうよ」と誘われた。
桜居と高木は、この後で高木の行きつけであるカクテルバーに飲みいく約束をしていたのだそうだ。若者達につき合うのも楽しそうだと、橘は頷いた。
二軒目もあることを考えて控えめに酒を飲みつつ、隣りに座る高木やカウンター内の桜居とたわいのない会話を楽しむ。その中で気になる話を聞いた。
「馳走になった?」
「そうなんです。須藤さんが、『真夜中の祠』の神さまに突然そう言われたんだそうですよ」
「で、後からわかったことですが、その言われた時間帯に、須藤さんの元奥さんが殺害されていたみたいなんです」
「それは、また……」
(まさか、『真夜中の祠』の神さまが殺人を犯したなんてことはないだろうな)
それなら、絶対に犯人は捕まらない。警察泣かせの事件ってことになるが……。
「殺したのは人間ですよ」
橘の心を読んでいたかのようなタイミングで桜居が言う。
「神さまがわざわざ首を絞めて殺すわけがない。『真夜中の祠』で夢を見させられたとき、俺は見事にばっさり意識を刈り取られました。きっと同じように命を刈り取ることだってできるんじゃないですかね」
「その場合は心臓麻痺ってことになるのかな?」
「いや、心不全や突然死なんじゃないか」
「それで神さまはなにを馳走になったんだ?」
はいはいと高木が手をあげる。
「俺は、須藤さん親子に絡んでいた因果の糸だと思います」
「因果の糸ってなんなんだよ。わけわかんねぇ。単純に死んだ女の魂をぺろっと食べたって話だろう。――『真夜中の祠』の神さまは元々は
「そうらしいね。ああ、そういえば、少年の正体が分かったよ」
「マジですか⁉」
「ああ。水瀬樹君。小学六年生の男の子でちゃんと実在していたよ」
「なんです、実在って」
橘の奇妙な言い回しに桜居が笑う。
「いや、実はその少年は幻覚の可能性があると思っていたものでね」
妻から『真夜中の祠』の話を聞いたばかりの頃、妻の言葉の真偽を確認したくて、個人的に少年のことを調べてみたことがあったのだ。だが、妻が送っていったというマンションには、その年頃の男の子がいるシングルマザーは存在していなかった。
だから、その少年も『真夜中の祠』と同じように、神さまが一時的に産み出した幻の一種なのではないかと推測していたのだ。
もちろん、そんなことを言えば、ではもう会えないのかと妻が悲しむだろうから口には出さなかったが。
「樹君の母親に聞いたところによると、ちょうどその頃、本来暮らしているマンションが上の階からの水漏れ事故で水没したとかでリフォーム中だったんだそうだ。それで一時的に知り合いのマンションを借りていたらしい」
「なるほど。偶然タイミングが悪くて、その時点では知り合えなかったってことですね」
桜居が言う、偶然という言葉に妙に力を感じた。
(今こうして偶然樹君の消息を知ることができたのは、つまり知り合うべき時が来たってことか……)
橘を、どこかに導こうとしているものにとって……。
のんびり話をしている間にあっという間に時間が過ぎていき、もうじき居酒屋の閉店の時間を迎えようとしていた。
店内に残る客は、橘たちを含めて三組のみ。みな会計も済ませ〆のお茶を飲んでいて席を立つのも時間の問題だ。
「おう。今日はもうあがっていいぞ。友達を待たせるんじゃねぇよ」
必要な事以外は滅多に口を聞かない無口な店主が、桜居の肩を叩いた。
「ありがとうございます。とりあえず、この洗い物だけ済ませてからあがりますね」
桜居の答える声が聞こえる。そろそろだなと、脱いでいたスーツの上着を羽織った時、ポケットに入れておいたスマホが震えた。
見ると同僚からのトークアプリで、『佐野が消えた』と書かれてある。
どこで消えたのかと聞くと、住所が送られてきた。
(ここは、『真夜中の祠』のあるあたりだな)
どういうことだ。具体的な事情を教えろとスマホに入力する。
トークアプリは入力する手間が面倒だが、捜査から外されている橘にとっては有り難い機能でもある。
電話で会話すると周囲の人達に会話内容がばれてしまうが、入力文字で会話する分には知られる心配がない。捜査から外されている橘に情報を与えたことで同僚が注意を受ける危険性も少ないので、こうして気楽に情報をもらえる。
『見ていた奴の証言。ビルとビルの狭い隙間に入って、それっきり姿が見えなくなったと』
(では、佐野も『真夜中の祠』に入ったのか……)
佐野だって、自分が警察に見張られていることに気づいているだろう。そういう意味でいえば、佐野は確かに追い詰められている。
『真夜中の祠』に入る資格だってあるのだろうが……。
(あそこに入ったら、佐野は樹君と会ってしまうんじゃないか?)
「……これは、まずい」
あの少年と佐野が出会うことは、とてつもなく悪いことのように橘には感じられた。
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