9 佐野
「私、あなたのこと知ってるわ」
目深に被ったニット帽の中に髪を押し込め、マスクをしてうつむき加減で歩いていた佐野は、派手な身形の女に声をかけられた。
「あなたが今、なにをしてきたのかも見ちゃった」
うふふっとやけに楽しげに笑う唇が、外灯の明かりを反射しててらてらと光っている。
「ねえ、少し私とお話しましょうよ?」
女は蛇を思わせる仕草で、するりと佐野の腕に手を絡みつかせてきた。
☆ ☆ ☆
(あの女に見られさえしなければ……)
佐野は背後を気にしつつ早足で歩きながら、悪魔のような女に目をつけられてしまったことを悔やんでいた。
あの女との出会いは数年前、小児科の診察室だった。
「この子、風邪を引いたみたいなの。さっさと見てちょうだい」
女は、具合の悪い娘を乱暴に突き飛ばしながら診察室の中へと入ってきた。
食欲の有無、いつから熱があるのかと聞いても知らないと答える。娘本人に聞けば、普段は父親が面倒を見ているらしい。休めない仕事があるから、代理として仕方なく女が付き添ってきたようだった。
診察の最中、娘の身体に虐待の痕跡を見つけた。どうやら執拗に何度もつねられたようで、複数の青あざと長い爪が食い込んだ傷跡が残っていた。女に事情を聞こうとしたら、全て夫の仕業だと見え透いた嘘をついて強引に逃げ帰ってしまった。
児相に連絡したが、やはり逃げられてしまったようだ。
そして最近になってまたあの女の娘の名前を聞いた。
あの女と離婚していた夫が、娘の親権を奪い返す為に過去の虐待の証言を求めていたのだ。佐野は喜んでそれに応じた。
そして再会したあの女もまた同じようなことを佐野に要求するために、佐野を捜していたようだった。
「声を掛けようとしたんだけど、こそこそと人目を気にしてるみたいだから、こっそり後をつけてみたのよ。私、こういうことに鼻が利くのよね。――つけられてたって気づいてた?」
「いえ……。なにが望みなんです?」
「娘を虐待したのはあの男だってことにして欲しいのよ。娘の親権を取られるのは困るの。いい感じに育ってきたから、これからたくさん稼いでもらうつもりなんだもの。もちろん、あなたにもたっぷり稼がせてもらうわよ。嫌とは言えないわよね? ――あなただって、殺人犯だってことばらされたくないでしょう?」
いい金蔓を見つけたわと悪魔のような女がにっこり楽しげに笑う。
母親失格の女を始末したばかりだった佐野には、確かに嫌とは言えなかった。だが、女の要求に応じるつもりもなかった。だから金の受け渡しの為に待ち合わせたホテルで女を始末したのだ。
犯行の際には、ばれないよう幾重にも対策を講じた。アリバイ工作も完璧だったし、証拠も一切残さなかったはずだ。
それなのに、なぜか警察は佐野に目をつけた。
育ての親である親戚から、佐野の子供時代のことを警察が聞きにきたと連絡が来たのだ。それとなく看護師達に話を聞いてみたら、以前話を聞きにきた刑事達が佐野の知らぬ間に何度も病院に出入りしていたらしい。
(あの日、怒りに我を忘れたりしなければ……)
子供にとって害悪になる母親を、佐野は今まで何人も排除してきた。いつだって充分に用心して、事故に見えるよう対策を講じてきたつもりだ。その甲斐あって、今まで一度も佐野の関与を疑われたことはない。
今回も同じようにするつもりだったのだ。
だが、暴力をふるう夫への生け贄として自分の子供を捧げたことに罪悪感を抱かず、むしろ開き直った母親を見たとき、つい理性のたがが外れてしまった。
カッと頭に血が昇り、気がつくと女の首に両手をかけていて、もう後戻りできない状況になっていた。そこをあの女に見られてしまったのだ。
結果的に絞殺死体をふたつ作ってしまったが、だからといって自分が疑われる心配はしていなかった。隠蔽工作は完璧だったはずだからだ。
だが、どこからかばれてしまった。
もしかしたらあの女が、佐野の件を誰かに話していたのかもしれない。もしかしたら佐野を脅すための証拠をどこかに残していたのかもしれない。考えてみたところで、今となってはもう確かめる術はない。
そして、その時間も残されていない。
(これからどうすべきか……)
子供を虐待する母親達を始末してきたことに後悔はない。
どうしたって子供は親に愛されたいと望むものだ。どんなに酷い目にあわされても、最後には親を庇おうとする。児相に保護されてなお、親と一緒に暮らしたいと望む子供は多い。
かつての佐野もそうだった。
父親と離婚した母親が自分を引き取りたいと言ってくれたとき、やはり嬉しいと思ってしまったのだ。
そして虐待を後悔しているという母親の言葉を信じた結果、佐野は手酷い裏切りにあった。
信じていたからこそ、許せなかった。それなのにどうしても母親を嫌いにはなれなかった。
せめてもう二度と裏切られないよう、自分の人生から母親を完全に排除するために事故を装って殺した。
死して思い出となった母親は、もう二度と佐野を裏切らない。いつも記憶の中に残る一番優しい顔で微笑んでいる。
(生きて害悪になるぐらいなら、思い出にしてしまったほうがいい)
そんな考えが、佐野を殺人に走らせた。
佐野はずっと、自分と同じ生い立ちのこども達を助けているつもりでいたのだ。
だがあの日、自分の子供を暴力をふるう夫の元に残してきた女を見て怒りに我を忘れてしまった時に、自分の思い違いに気づかされた。
(僕はこども達を助けているんじゃない。まだお母さんを許せていなかったんだ)
だから代償行為として、似たような女達を排除し続けてきた。
警察に目をつけられてしまった今、それももうできない。
(そうだ。まだやり残したことがあった)
佐野はポケットの中から、殺した女から奪った紙切れを取り出した。
紙切れには『真夜中の祠』という文字と地図が書かれてあり、とある場所に大きな矢印が引かれていた。
『『真夜中の祠』で会ったあの子供、あんたに似てたんだ』
殺した女が奇妙なことを言っていた。
佐野に似た男の子が、真夜中にひとりで出歩いていると……。
(僕に似ている子供というと、やはり樹君でしょうか)
プロポーズを断われた後も、佐野は密かに桐子を監視し続けてきた。
万が一にも子供を虐待するようなことがあったら、すぐにでも排除しようと思っていたのだ。今まではその気配はなく、むしろ親子ふたり幸せそうに暮らしていたから見守ってきたのだが。
(理想的な親子に見えていたんですが……)
暴力をふるう父親がいない家庭。かつての自分に良く似た男の子が、楽しげに笑いながらお母さんと一緒に歩く姿を見ることで、佐野は癒されてきた。
辛いことが多かった幼少期の記憶を、樹に自分を重ねることで新たな記憶に塗り替えようとしていたのかもしれない。
だが、あの幸せな光景が偽物だったとしたら……。
(確かめなくては……)
もしも本当に子供が深夜にひとりで出歩いているのなら、桐子が子育てを失敗したということになる。
もしそうなら、このままにしておくことはできない。
(お母さんがまた過ちを犯すのを見逃すわけにはいかない)
もう二度とお母さんに裏切られないよう、今度こそ完全に排除しなくては……。
佐野は、桐子と自分の母親を無意識のうちに混同していることに気づいていなかった。
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