8 橘

「よろしくお願いします」


 橘は、桐子から佐野の関与が疑われる死亡者と行方不明者のリストのデータを受け取った。

 署に戻って調べてみたところ、その幾つかは事件として捜査が行われていたが、最終的に事故だったということで処理されていた。行方不明者に関しては、自主的な失踪と判断されて捜査すらされていない。


「偶然の可能性もあるんじゃないですか?」


 岩倉は不審げな顔でリストを見ている。

 仕方なかったとはいえ、ひとりだけ桐子との話に混ざれなかったことが不満らしい。『真夜中の祠』に関することを説明できなかったせいでいまいち桐子の疑いに信憑性を感じられないのか、この捜査の必要性にも懐疑的だ。


「だが、不自然に死亡者が多いのも事実だ」

「……確かに。それで、どうする気ですか? このリストを片っ端から調べていくつもりですか?」

「さすがにそれは現実的じゃないだろう」


 数が多すぎてふたりで調べていたらどれぐらいの時間がかかるか……。

 かといって、今の段階で他の刑事達を動員することもできない。つき合いの長い他の刑事達に声を掛ければ、きっとばれてしまう。

 桐子から渡されたリストの中に、ことを……。

 そんなことになれば、私怨をこじらせただけだと真剣に受けとめてもらえずに流されてしまう可能性もあるし、橘が捜査から外される可能性もあった。


(確かにあの頃、彼女はあの病院に通っていた)


 こんな形で元妻の名前を見ることになるとは思わなかった。

 と同時に、今の妻が近所の小さなクリニックに通っていることを思い出して安堵もしていた。


(もしも……もしも彼女の事故が、事件だったとしたら……)


 あの認知症の老人が証言したように、男に追われて歩道橋から転げ落ちて死んだのだとしたら……。

 想像しただけでも、じりじりと焼けるような怒りがこみ上げてくる。


(あの頃だったら、間違いなく復讐していた)


 妻の事故の原因を一人で探っていた頃も、そして妻が代理ミュンヒハウゼン症候群かもしれないと知らされた後も、ずっと橘は忙しさにかまけて妻子のことを二の次にしてしまった罪悪感に苛まされていた。

 だからこそ、自分の人生全てを投げ捨ててでも殺人犯に復讐することで妻子への償いにしようとしただろう。

 だが、今はもう無理だ。

 今の橘には再婚した妻がいて、可愛い娘がいて、妻のお腹の中にはもうひとつ小さな命も宿っている。

 死者への償いの為に、この人生を消費することは許されない。


『私達をあなたの生きる意味にしてくれませんか?』


 死なせてしまった妻子への罪悪感で凝り固まっていた冴えない中年男にプロポーズしてくれた妻。

 彼女自身も、その膝の上に抱っこされている娘も明るい微笑みを浮かべていて、冷え切っていた橘の心に少しずつその温かみを分け与えてくれた。

 もう彼女たちを手放すことなど考えられない。


「佐野を調べてみよう。まずは幼少期を重点的に」

「わかりました」


 桐子の話では、佐野は一時的に行政関係の施設に保護されていたようだ。調べてみると、あっさり記録が見つかった。


 佐野智哉。ひとりっ子で、父親はトラック配送業を経営し、母親は専業主婦。

 表面上は普通の家庭だったが、智哉が公的な検診をなかなか受けにこないことで要注意家庭とされていた。事態が表面化したのは智哉が小学校に行く年齢になった頃。

 発見当時、智哉はやせ細り、身体中に両親からの暴行の後が見られた。そして、そのまま両親から引き離されて、親戚の家で育つことになる。


「これは……酷いですね」


 虐待の証拠として残されていた古い写真を見て、岩谷が顔を歪めた。


「こんな目にあってもドロップアウトせず、成長して医者になったんだからたいしたものじゃないですか」


 脳筋のきらいがある岩谷の目には、疑うなんて酷いという非難が浮かんでいた。


「確かにたいしたものだ。だが、自分を虐待した母親と同じ顔の女性に、真実を隠したままプロポーズした男だぞ。しかもその女性は、佐野になにか不穏なものを感じてプロポーズを断っている。――同情で目を曇らせるな」

「はい」


 厳しく言うと、岩谷は素直に頷いた。


「この記録を見ると、虐待していたのは主に父親で、母親の方は従犯ですよね。なのに、どうして佐野は女親ばかり狙うんでしょう? 男親のほうには興味がないんですかね」

「確かに少し違和感があるな」


 病院で顔を合わせるのが主に母親だから、そちらにばかり気を取られているのか。男性を狙うより女性のほうが楽だからなのか。それとも、それ以外にもなにか理由があるのか。

 ただ考えていても真実に辿り着くことはない。自分の足で動き、事実を積み重ねた先に答えはあるはずだった。


「佐野を引き取って育てたという親戚に話を聞きに行くぞ。――運転よろしく」


 岩谷に声をかけて先に廊下に出ると、「はい!」と元気な返事が後ろから聞こえてきた。



 車での移動中、ふと気になって桜居に電話してみた。


「須藤さんの件、お嬢さんの虐待を見つけた病院がどこかわかるか?」

『わかりますよ』


 出勤途中だという桜居が告げた病院名は、佐野の勤務している病院だった。


「担当医の名前は?」

『あーちょっとわからないです。でも、医者なのに歌舞伎役者みたいに綺麗な顔をしてたと調査員が言ってたそうですよ』

「そうか……」

『なにかありました?』

「ああ。もしかしたら、俺の調べてる事件と須藤さんの元妻の事件が、本当に繋がるかもしれない。……同じ医者に診てもらっていただけかもしれないがな」

『いや、それはないです』


 不意に桜居の緊張した声がスマホから届いた。


「桜居君?」

『俺にはよくわかりませんが、橘さんが気になっているのなら、だと流さないほうが良い。ここ最近の橘さんの周りで起きているに、俺はなにものかの意志を感じます』

「それは……。具体的に話してもらえるかな?」

『俺はどっちかというとリアリストなんで、この手のあやふやなことを言うのにかなり抵抗があるんですが……』


 言い辛いのか桜居はしばらく悩んだ後で、ぼそっと告げた。


『俺は、いや俺達はみんな、まだ『真夜中の祠』の神さまの手の平の上にいるような気がしてるんです。そして俺達を繋いでいるのは橘さんだ。だから橘さんの周りで起きているそのは、一種のだと考えたほうがいいんじゃないかと思うんです』

「……どこに導かれてるんだと思う?」

『俺にわかるわけないじゃないですか……。でも俺は、一度あの神さまに救われてる。信じる価値はあると思ってます』

「そうか。話してくれてありがとう」


(なぜ俺が中心なんだ? 俺は『真夜中の祠』に招かれたことさえないのに……)


 通話を切り、しばし考えてみたが、答えは見つからない。

 導かれるまま進んでいけば答えは見つかるのだろうか。

 橘は我知らず車窓を流れていく光景に目をこらしていた。

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