3 橘

「いらっしゃいませー」


 小さな居酒屋の暖簾をくぐると同時に元気な声が聞こえた。


「あれ、橘さんだ。お久しぶりです~」

「やあ、亨くん。隣りいいかな?」

「もちろんですよ。どうぞどうぞ」

「なに飲みますか?」

「とりあえずビールで」


 顔見知りの若者、高木の隣のカウンター席に座ると同時に、おしぼりとお通しが出された。今日のお通しはレンコンのきんぴら。腹が減っていたのでおしぼりで手を拭いてから、さっそく箸をつけた。ザクザクした軽い歯ごたえと、薄味の優しい味付けにホッとする。

 カウンター内で忙しく働いている店員の桜居に、夕食を適当に見つくろってくれと頼んでからビールにも口をつけた。


「ねえねえ、橘さん、須藤さんの元奥さんの事件、犯人まだ捕まらないんですか? もう随分たちますよ」

「まだみたいだぞ」

「みたいだぞって、他人事だなぁ」

「よその管轄なんだから仕方ないだろう」


 高木の上司である須藤の元妻が絞殺死体で発見されたのは三週間程前。

 橘は、須藤の親権トラブルの話を桜居から聞いていたので、須藤の元妻の死体が見つかったとの一報を受けた際、須藤がパニクっておかしなことを口走らないよう、こっそり先に連絡を取ってその事実を伝えた。

 だができるのはそこまでだ。自分の担当する事件もあるし、所轄が違う事件にそうそう首は突っ込めない。


「事件のあったシティホテルは商業施設とも繋がっていて、かなり人の出入りが多いところなんだ。犯人の特定は難しい」


 それだけじゃなく、ジムやスパ、サウナ施設などもある。宿泊者と違って記名する必要のない利用客が数多く出入りしているので、個人特定は困難だ。犯人の遺留物からも個人を特定できるようなものは発見されておらず、その用心深さにプロの仕業ではないかという者すらいるぐらいだ。


「犯人が特定されないままだと、須藤さん達もすっきりしないだろうなぁ」


 高木の呟きに、橘はその通りだと心の中で答えた。

 そうだ。犯人が、いや、真実が特定されないままでは、いつまでも遺族はすっきりしない。

 まるで棘でも刺さっているように、いつまでもチクチクと心が刺激され続ける。


(あれから、もう十年も経ったのか……)


 橘の最初の妻子はで死んだ。

 妻は二歳になる娘を抱いたまま、近所の歩道橋から転げ落ちたのだ。

 娘を抱いていたことで、身を守るため咄嗟に手を出すこともできなかったのだろう。打ち所が悪く妻は即死だった。妻が守ろうと抱えていた娘は瀕死状態だったが手当も虚しく亡くなった。

 捜査の結果、妻子の死は事故と判断されたが橘は納得できなかった。

 事故の時間帯は深夜、なぜ妻がそんな時間帯に家を出たのかがわからない。幼い娘は酷く病弱で、そんな娘を常に心配していた妻が、真冬の深夜に部屋着の娘を外に連れ出すはずがないのだ。明らかになにかがあって急いで外に飛び出たとしか思えない。

 それに、妻の事故には目撃者がいた。

 その目撃者は、妻は黒づくめの人物に追われて焦っていたために、足を踏み外して階段から落ちてしまったのだと証言した。

 だが彼は高齢で、事故を目撃したのも徘徊時だった。認知症の診断を受けて長いことから、最終的に証言能力はないとされた。

 その老人がちょうど同じようなシチュエーションのアニメを見た直後だったのも悪かった。そのせいで記憶が混線してしまったのだろうと、老人から話を聞き出してくれた医師に判断されてしまったのだ。

 そして捜査はあっさり打ち切られた。同じ管轄内で同時期に派手な事件が起こっていて、人手が圧倒的に足りなかったことも不運だったのだと思う。


(馬鹿げてる。あれは事故なんかじゃない)


 妻子を失ってはじめて、橘は刑事として忙しく働く中でいつの間にか妻子のことを後回しにしていた自分に気づかされた。そしていつも気丈に笑う妻が、そんな橘に負担をかけないよう無理をしていただろうことにも……。

 食が細く、ちょっとしたことでも熱を出し、言葉も遅い娘。この子の将来への不安をひとりで抱えこんだ妻は、どれほどに心細かったか。

 妻に謝ることはもう出来ない。ならばせめて妻の死の真実を見つけたかった。

 警察が捜査を終了した後も橘はひとりで妻の事故を調べ続けた。だが仕事をしながらの私的な捜査は負担も大きく、身体を壊して入院する羽目になった。

 そして見舞いにきてくれた、妻の事件の担当だった刑事に言われたのだ。


「なあ、橘……。って知ってるか?」


 代理ミュンヒハウゼン症候群。

 自分の子供などの要介護者をわざと病気にして、それを献身的に看病することで周囲の注目や同情を集めようとする精神症状のことだ。

 その言葉を聞くと同時に、橘はずっとくすぶり続けていた疑問の答えを得た。

 産まれた時は普通だったのに、成長するにつれ病弱になっていった娘。事故当時、妻はダウンジャケットを着ていたのに、娘は部屋着のままだったこと。毎週のように病院に通うことを苦にせず、平気よと笑っていた妻。気丈に振る舞っているのだと、ずっと思っていたのだが……。


「はっきりそうだって言うわけじゃない。ただ、病院関係者がその病気を疑って、ちょうど調査に乗り出そうとしていた時の事故だったんだそうだ」

「……わかった」


 あまり気を落とすなよと言い置いて、刑事は帰っていった。

 そして橘は諦めた。諦めて、妻子の死が事故だったのだと認めた。

 だが、それでもどうしても納得しきることはできなかった。

 本当にあれは事故だったのだろうか?

 あの老人の証言が真実だった可能性もまだ残っているのではないか?

 折に触れそんな思いが胸をよぎり、チクチクと橘の心を刺激する。そして、その痛みは後悔を呼び寄せる。

 橘がもっと妻子を気遣ってさえいればあんな事故は起きなかったのではないか。あの二人を殺したのは自分なのではないかと……。

 そして、妻の心の闇に気づくことができずにいた無責任な自分に嫌気がさす。生きていることがしんどくなるほどに。

 再婚した妻は、そんな橘の心を

 彼女自身も自責の念にかられ続ける心の傷があり、橘の苦痛に共感してくれた。


『私達をあなたの生きる意味にしてくれませんか?』


 二歳になるぷくぷくとした手の可愛らしい娘を膝に抱き、橘ににっこりと笑いかけてきた彼女。

 そんなの断れるわけがない。

 なんて卑怯な女だと腹立たしく思ったものだ。

 その後、橘は再婚して新たな生きがいを得た。

 もちろん失った妻子に対する罪悪感が消えることはないが、最近やっと幸せだと感じることを自分に許してやれるようになった。


(『真夜中の祠』か……)


 生きることがしんどくて、もう死に逃げこんでしまおうかと考え続けていたあの頃の自分ならば、『真夜中の祠』に入れただろうか?

 そこで示されたかもしれない道の中に、今以上の幸せを見いだすことはできただろうか?


(……いや、ないな)


 もしかしたら、なんて考える必要はない。

 今以上の幸せを、橘は必要としていないのだから。


「ああ、そういえば。『真夜中の祠』に招かれたことのある人にまた会ったぞ。これで四人目か」


 けっこういるもんだなと橘が言うと、カウンターの中の桜居は軽く首を傾げてなにか考え込んでいた。





  ☆ ☆ ☆



もう年の瀬ですね。一年があっという間で途方にくれてます。

年末年始の更新は不規則になると思われます。

よろしくお願いします。

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