2 桐子

 外科病棟で看護師として働いている水瀬桐子は、婦長から刑事がふたり面会に来ていると言われて、急いでカフェスペースに向かった。


(あの人達かしら……)


 まったり珈琲を飲んでいるスーツ姿の二人組を見つけて近寄っていく。


「はじめまして、水瀬です。刑事さんですよね?」

「おっと……。はい、橘です」


 声を掛けるまで桐子に気づいていなかったようで、穏やかそうな刑事が慌てて警察手帳を提示する。


「彼女に珈琲を買ってきて」


 部下らしい若い男に指示を出す橘を、「自分のがありますから」と桐子は慌てて止めた。

 ナース服のポケットからポケットサイズのマグボトルを取り出して見せる。休憩して水分補給する暇がないこともあるから、これはかなり便利なのだ。


「それで、あの……お話というのは、やっぱり井口和恵さんの件でしょうか?」

「話が早くて助かります。小児科の看護師から、あなたが親しかったようだと伺ったのでお話をと思いまして……。親しくなったきっかけをお伺いしても」

「はい。病院で開催しているマタニティー学習会の手伝いに行った時にはじめてお会いして、それからずっと育児相談に乗っていました。彼女が病院に来るときは、いつも私の休憩時間を意識してたみたいです」

「かなりお親しいんですね」

「親しいというか……。他に話ができる相手がいなかったせいだと思います」


 はじめて和恵を見かけた時、なんて刺々しい人だろうと思った。だがその言動の刺々しさに負けずに近づいてみれば、彼女の刺々しさが自信のなさの裏返しだということがすぐにわかった。

 暴力癖のある父親とギャンブル依存の母親に育てられたせいで、彼女はを知らない。

 それがコンプレックスになって、彼女から見れば、普通の家庭で育った幸せそうに見える他の妊婦達に対する刺々しい態度になっていたのだ。

 だから桐子は、自分が婚約者に先立たれたなシングルマザーだと故意にカミングアウトすることで、彼女の共感を得ることに成功した。

 それからは自分の育児体験を話すことで、それとなく彼女に普通の育児方法を伝えるようにしてきた。

 食育のこと、読み聞かせのこと、子供の体調を見極めるコツのようなもの、季節ごとにあると便利な服のこと。そして子供の将来の為にも、なるべく穏やかな口調を心がけていること……。

 できるだけ和恵のコンプレックスを刺激しないよう、それとなく色んなことを伝え続けてきた。


「旦那さんからDVを受けているのは気づいていましたか?」

「……はい。それとなく本人にも何度か聞いてみましたが、その度に否定されてしまって……。あの、報道ではっきり出ていなかったのですが、犯人は旦那さんなんでしょうか?」


 もしそうなら、きちんと向き合って対処しなかった自分にも責任がある。桐子は膝の上でぎゅっと強く手を握りながら聞いてみた。


「いいえ、違います。当時、彼は別件で警察に拘束されていたので犯人ではありませんよ」

「そうですか」


 よかった、とは言えない。

 どちらにせよ和恵は、誰かの悪意によって殺されてしまったのだから……。


「充君はどうしていますか?」

「施設に保護されています。たぶん、このまま里親を捜すことになるでしょうね」

「……そうですか。――和恵さん、苦しまれたんでしょうか?」

「え?」

「彼女、凄く痛がりで怖がりだったんです。充君を出産したときも、あんなに痛いなら、もう二度と子供なんて産まないなんて言ってた……ぐらいで……」


 出産直後、酷い目に遭ったと愚痴っていた和恵を思い出す。愚痴りながらもその唇には笑みが浮かんでいて、はじめて母になった喜びに溢れていた。

 大切な我が子を置いて死ななければならないなんて、どんなに心残りだっただろう。

 自分も子を持つ母だけに、その気持ちを思うと胸が潰れそうに痛む。


「……長く苦しむことは無かったと思いますよ」


 刑事の気遣うような声に、桐子は黙って頭を下げた。


「和恵さんから、なにかトラブルがあったようなことは聞いていませんか?」

「いえ、なにも……。和恵さんの世界は旦那さんと充君とで閉じていましたから、それ以外の話を聞いたことはありません。日に日に酷くなっていく旦那さんのDVには、密かに悩んでいたようですが……」

「そうですか」

「お役に立てず申し訳ありません」

「いえいえ。お気になさらず。故人を悼んでくださる方がいると知れただけでもよかった」


 穏やかに微笑んでくれる刑事につられて、桐子の気持ちも少しだけ緩んだ。


「……私ずっと、和恵さんから悩みを打ち明けて欲しいと思ってました」


 だが警戒心の強い野良猫のような彼女は、最後まで本当には心を開いてはくれなかった。


「他人の人生を背負う事なんてできないけど、一緒に悩むことならできると思っていたから……。でも私では力不足だった。だから、一度だけ神さまを紹介してみたことがあるんです」

「宗教ですか?」


 刑事の怪訝そうな顔。警戒されたと気づいて、桐子は慌てて手を振った。


「危険な新興宗教とか、そういうのとは違います。……まあ、怪しい話ではあるんですが……。――刑事さんは『真夜中の祠』という都市伝説をご存じですか?」


 桐子が問いかけると、刑事は明らかにぎょっと驚いていた。

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