第6話 さそわれて
1 佐野
「佐野先生、警察の方がいらっしゃってますよ」
佐野が昼休憩から診察室に戻ると、看護師が話しかけてきた。
「警察? なにか問題がおきた?」
「公園で女性の絞殺死体が見つかった事件があったでしょう? あの被害者のお子さんが佐野先生の患者さんだったそうで、少し話を聞きたいと」
「なるほどね。それなら診察時間になる前に話をしておきましょうか。お通しして」
佐野は小児科の医師だ。午後の診察の準備を整えながら待っていると、ほどなくして男性がふたり診察室に入ってきた。
「失礼します。お忙しいところ申し訳ありません」
警察手帳を提示しつつ話しかけてきた男の年の頃は、佐野よりも少し年上で四十代前半から半ばくらいか。撫で肩で痩せていて、穏やかな笑みを浮かべている。警察関係者特有の威圧感を感じさせない男だった。
椅子を勧めると、橘と名乗ったその男だけが椅子に座り、もうひとりの体格のいい若い男はその背後に黙って立っている。
「殺人事件の捜査だと伺いましたか?」
「はい。捜査と言っても、被害者がよく立ち寄った所を回って、お話をお聞きしてるだけなんです。こちらの写真の女性、ご存じですよね?」
「はい。井口さんです。報道で見ましたが、殺害されたとか」
「そうです。絞殺死体で発見されました。まだ未解決ですので、是非ともご協力を。こちらではよく被害者の息子の充くんがお世話になっていたとお聞きしましたが」
「はい。怪我の多い子で……。ベッドやソファから転げ落ちての打ち身や、転んで骨にヒビが入ったり、うっかり鍋に触って火傷したりと酷いものでしたよ。母親は事故だと言い張ってましたが、あれは虐待による怪我だったと思ってます。母親本人も良く怪我をしていたようなので、こちらとしては旦那さんのDVを疑っていました。それで児童福祉局に通報したのですが……。もしかして、それが影響して?」
「ああ、いえ。殺害に夫は関係ないようです。アリバイがしっかりしてますので」
殺害事件があっただろう時間帯、夫は児童相談所の人間を殴ったことで警察に確保されていた。それ以前の行動も街中の防犯カメラにしっかり捉えられていたようだ。鉄壁のアリバイですねと刑事が言う。
「充君は今は?」
「ご心配なく。施設に保護されています」
「そうですか、よかった。あ、いえ、母親が殺されたんだから、よかったはないか……」
「ところで、診察時に被害者が発言したことで、なにか気になったことはありませんか?」
「う~ん、特には……。彼女自身のメンタルも気になるところだったので、世間話のように気晴らしにママ友と遊びにいってはと勧めてみたこともあったのですが、余計なお世話だと逆に怒られてしまいました」
「ああ、どうも被害者は、人づきあいが苦手なタイプだったようですね。結婚して以来、知人とのつき合いがほとんどなかったようです」
「それは、旦那さんのDVの一環では?」
「確かにそういう面もありますか……。失礼ですが、さっきの口ぶりからして、先生は旦那さんが犯人だと思ってらっしゃったようですね」
「DVの件があったので、井口さんの事件を報道を知った時は、すぐに旦那さんの犯行ではと疑ってしまいました。すみません」
「ああ、いや。謝らないでください。疑っただけで謝らなきゃならなくなったら、私達警察が大変なことになりますから」
謝ってばかりだと腰を痛めそうだ、と刑事が苦笑する。
「犯人の目星はついているんでしょうか?」
「それがさっぱりでして……。乱暴した形跡もないし、当時井口さんは手ぶらでバッグすら持ってなかったので物取り目的の犯行の可能性も薄い。人付き合いもほとんど無いことから、対人トラブルも考えにくい。通り魔的犯行だとすると、犯人の特定までかなり長引くことになりそうです」
「あの……少しいいですか?」
部屋の中で午後の診療の準備をしていた看護師が、遠慮がちに話に入ってきた。
どうぞ、と刑事が優しく促すと、少しためらってから口を開いた。
「井口さんとは、うちの病院の病棟で働く看護師が親しくしていました」
「その人の名前は?」
「水瀬さんです。水瀬桐子さん。以前から彼女は病院側で開催するマタニティー学習会の助手のようなことをしてくれていて、そこで少し問題がありそうな母親のサポートを進んで担当してくれていました。たぶん井口さんとはその縁で親しくなって、その後もずっと育児相談に乗っていたんだと思います」
「そうですか……。ありがとう。助かります。そちらでも話を聞いてみます」
お忙しいところありがとうございましたと、最後まで低姿勢なまま刑事は立ち上がり部屋を出て行った。
その途端、背後から看護師の深いため息が聞こえた。
「警察とかって、やっぱり緊張しますね」
「そう? 悪いことしてないんだから堂々としてればいいんだよ」
「わかってますけど……。水瀬さんに悪いことしちゃったかなぁ」
「気にしなくてもいいよ。井口さんと親しくしてたんなら、水瀬さんだって犯人が捕まって欲しいと思ってるだろうからね。喜んで警察に協力するだろう」
「それならいいんですけど……」
「さあ、そろそろ診察時間だ。患者さんを呼び入れてください」
「はい」
佐野は無臭のハンドクリームを使いながら看護師に声をかけた。
子供の柔らかな肌に触れる仕事だけに、なるべく指先がざらつかないようにとの昔からの習慣だった。それから、机脇に置いた小さな鏡で自分の顔を確認するのも習慣のひとつだ。
「よし、大丈夫」
自分の顔に、子供に怖がられないような穏やかな笑みが浮かんでいることを確認した佐野は、診察室に入ってくる患者さんにその作り笑顔をそのまま向けた。
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