6(END)
家に帰れば、息子の死体を見ることになる。
それが分かっているからなかなか帰る気になれず、和恵は俯いたままずっと公園のベンチに座り続けていた。
どうやらそのまま少しうとうとしていたらしい。砂利を踏む足音にふと目覚めると、目の前に靴の爪先が見えた。
「以前もよくここに座ってましたね。今日は息子さんはいないんですか?」
顔を上げると、そこにはよく知っている顔。
「以前も? ……もしかして、前に警察に通報したの、あんたなの?」
「心配だったので……。それで、息子さんはどうなさったんです?」
「家に置いてきた」
「暴力をふるう夫の元に、無力な子供をひとりで?」
「……言いたいことがあるんなら、はっきり言ったら?」
「ではお言葉に甘えて……。あなたのお子さんの怪我は明らかに虐待によるものです。そして以前から不自然な怪我をしていたあなたは、息子さんの怪我が増えるにつれて怪我が減ってきた。あなたのように子供を身代わりにして、自分の身を守ろうとする女は嫌いです。……さっさと死ねばいいのに」
「あぁ? あたしもあんたが嫌いだよ。そのお上品なおすまし顔を見ると虫ずが走る。親切ぶってても、あんたが腹の中であたしのことをバカにしてるってこと、こっちはとうの昔にお見通しなんだ」
どっか行けよと、乱暴な口調で手を振ったが無駄だった。
そいつは和恵が嫌いなお上品な笑みを浮かべたまま動こうとしない。
「気づいてます? ここは防犯カメラに映らない場所なんですよ」
「知ってるけど。それがなに?」
知ってるからこそ、以前からここを夫からの避難場所として使っていたのだ。
なんでそんなことを聞くのかとそいつの顔を見上げて、ふと気づく。
「ああ、そっか。『真夜中の祠』で会ったあの子供、あんたに似てたんだ」
「子供?」
「そう。小学生ぐらいの男の子。……あれ、もしかしてあんたの子供? 子供を守らない女は嫌いだとか言いながら、自分だって子供を夜遅くにあんな場所に追いやってるんじゃない。こういうのって、なんて言うんだっけ。同じ穴のなんとか……」
「同じ穴の狢ですか」
「そう、それ。はっ、笑える」
小馬鹿にして鼻で笑ってやっても、そいつは張り付いたような上品な笑みを崩さない。
(こんな奴の相手してる場合じゃないか……)
こいつが来るまで、どれぐらいうとうとしていたのか。時計がないからはっきり分からないが、そろそろ家に帰らないとさすがに不自然過ぎるだろう。
和恵は立ち上がると、突っ立っているそいつの脇を黙って通り過ぎ家に帰ろうとした。
だが、不意に後ろから両手で首を締め上げられ、その場に引き止められる。
「がっ……っ……」
ぐぐっと強い力で喉に指が食い込む。
なんとか抵抗しようと、締めつけてくる手を強く引っ掻こうとしたが、そいつは手首まである革手袋を嵌めていて、その肌に傷一つつけることができなかった。
(なんで……。助かったと思ったのに……)
苦しくて立っていられない。ガクッと膝から崩れ落ちると、いったん首から手が離れた。
逃げたかったがゲホゲホと酷くむせて身動きできない。その間にあっさり身体をひっくり返され、腹の上に乗られて、またぐいぐい首を絞められた。
(嫌だ。……死にたくない)
なにを犠牲にしても生きていたかった。
これではあの子の犠牲が無駄になってしまう。自分はあの子の分も生きる。生きて、もう一度人生をやりなおす。
そんな自分勝手なことを思いながら、死にたくないと和恵は必死であがいた。
だが、やがてその力も尽きる。
「……汚い女」
そいつは和恵の死体を隠すために、植え込みの中に引きずっていった。
少しでも身元の判明を遅らせようとポケットを漁ったが、スマホも財布も見つけられない。出てきたのは紙切れ一枚だけだ。
それは、和恵が以前貰った『真夜中の祠』の地図。
そいつは自分のポケットに紙切れを突っ込むと、そのままその場をあとにした。
時間は少し巻き戻る。
和恵が財布もスマホも持たずに家を出たことに気づいた夫は、財布を手に彼女を追って家を出た。だが近所のコンビニやスーパーでも彼女は見つからず、夫は苛立ちながら、途中で買った缶酎ハイを飲みながら家に帰った。
ひとり家に残された息子は心細さに泣いていた。そこに児童相談所の職員が来て、同じアパートで暮らす管理人の協力を得て、部屋の鍵を開けて泣いている息子を保護した。
夫は、ちょうどそこに帰ってきた。
妻を見つけられず苛立っていた夫は、子供をあやしている児童相談所の職員を見て、有無を言わさず彼らを殴り倒した。児童相談所の職員だと知ると、今度はおまえのせいかと息子を殴った。
そして警察が呼ばれて夫は拘束され、息子は保護された。
翌朝には和恵の絞殺死体が見つかり大騒ぎになった。
夫は殺人を疑われて取り調べを受けたが、やがてコンビニやスーパーの防犯カメラの映像で無実が証明された。
息子の充は、自分ひとりで育児は無理だと夫があっさり親権を放棄した為に、そのまま施設に保護された。
そして後日、子供のいない夫婦に引き取られることになる。
はからずも和恵の死によって、虐待の連鎖は断ち切られた。
充は、和恵が最後まで知ることがなかった、平凡で穏やかな人生を送ることになる。
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