(あ、今日なんだ)


 和恵はずっと待ち望んできた日が来たことに不意に気づいた。

 夫の暴力で病院の世話になったことで、何度か警察や児童相談所に通報されそうになった。DVシェルターへの入所を勧められたこともある。その度に和恵はDVなんかじゃないと見え透いた嘘で誤魔化してきた。

 だが、やっと誤魔化しきれないところまできたようだ。


(あの夢の中でも、確かにこのニュースを見た)


 テレビ画面には有名なイケメン俳優の薬物使用による逮捕劇が映し出されている。フードを目深に被り、車に乗せられていくその姿を記憶している。


「クスリかぁ。金があったらやりてぇな」


 いっそ売人にでもなるかと、小心者の夫がテレビを見ながら笑う。

 そんな度胸なんてない癖にと、心の中で夫を小馬鹿にするのも記憶通りだ。

 そして、このニュースを見た直後に児童相談所の職員が訪ねてくるはずだった。


「ちょっと買い忘れたものがあるから出掛けてくる」


 もう一刻の猶予もない。和恵はいつも着ているフリースのジャケットを羽織って急いで家を出た。


「おい、待てよ!」


 夫の声が聞こえたが無視して扉を閉める。

 財布もスマホも家の鍵さえ持ってくる暇がなかったが仕方ない。もうじき児童相談所の人間がやってくる。アパートの通路や近所の道路で彼らとすれ違ったりしないよう、急いでここから離れる必要があった。


(どこに行こう)


 首尾良くアパートから離れた和恵は、立ち止まって悩んだ末に近所の公園に行くことにした。

 内部に緑地を有するかなり広い公園で、日中は子供連れやお年寄りの散歩コースにもなっているところだ。夜でもマラソンコースとして使っている人がいたり、若者のグループがダンスの練習をしていて人通りは絶えない。

 余り人目につきたくなかった和恵は、人通りのない公園の奥まったところにあるベンチを目指した。以前よく夫の暴力から息子と避難していた場所だ。夜中に子連れの女がいると通報されたせいで使えなくなっていたが、女ひとりなら職質されてもなんとでも言って誤魔化せるだろう。


(……もう少しで、やっと自由になれる)


 児童相談所の人間が訪ねてきても夫は決して扉を開けないだろう。そして、黙っていろと息子の口を無理矢理押さえる。

 あの夢の通りなら、きっとその時に力の加減を間違った夫によって、息子の命は奪われてしまうのだ。


 ――ねえ、本当にこれでいいの? みっくん死んじゃうよ? 後悔しない?


 心の中から自問する声が聞こえたが、後悔なんてしないと和恵は首を横に振った。


(みっくんだって、このまま生きていれば、きっとあたしと同じ道を辿る)


 暴力癖のある親に支配され金を貢げと言われるようになる。男だから和恵のような目には遭わないだろうが、男だからこそ強い人間に押さえ込まれ従わされて生きるようになるだろう。

 夫と同じ、クソみたいな人生だ。

 上の人間に逆らえないままキツイ汚れ仕事を請け負って、そのストレスを和恵で晴らしている。成長した息子も、いつか和恵のような女を虐げるようになるかもしれない。

 そんなことになる前に、まだ無垢な子供のままで終わらせてあげるのだ。


(ふたりとも死ぬぐらいなら、ひとりでも助かった方がいいじゃない)


 息子を殺した夫は、殺人罪で警察に捕まるだろう。

 幼い自分の子供を殺したのだから何十年と塀の中に入ることになる。そして和恵は、夫から解放されるのだ。

 息子の犠牲で和恵は助かる。

 子供がいなければ、人生をもう一度やり直すことだって可能だ。

 だから、

 『真夜中の祠』で見せられた夢。そこから新たに導き出せる道の中で、これが一番の正解だと和恵は考えたのだ。


 ――もう一度、そなたに問おう。のだな。


 頭の中に『真夜中の祠』で聞いた性別不詳の低い声が響いた。

 あの不思議な体験をした夜から、神さまはずっと和恵を見ていてくれたのだ。


「もちろん。あたしはこれで助かる。親切な神さま、助けてくれてありがとう」


 胸をはって答えると、溜め息のような音が聞こえた。


 ――そうか。ならば、もはやなにも言わぬ。子を捨ててまでそなたが選んだ道だ。そのまま進むがよい。


 どこか悲しげな声だった。

 和恵が神さまから声をかけられたのはこれが最後となった。

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